レコーディングダイエットと無知の知の袋小路
先日クランプメーターを買ってから「なんでも数値化するとわかったような気になる」ということに気づいて、色々なものを計りたい衝動を内に秘めながら暮らしていたのだが、私が結構好きな人物であるオタキングの岡田斗司夫が書いた『いつまでもデブと思うなよ」』を最近お風呂で一気読みして、「レコーディングダイエット」なるものの第一段階を面白そうなので始めてみた。
食事制限もカロリー計算も一切なしで、毎朝体重と体脂肪率と体脂肪量を計り、食べたもの全てをメモするだけなのだが、自分が何を食べているのか殆ど意識していないことにかなりびっくりした。
食べた料理のメインの具材は覚えていても、つけあわせを殆ど覚えていない自分に気づくのは結構怖いものがある。
メモを取り始めて一週間もたっていないけど、それでも今まで統計の対象外であった「自分の食べたもの」がデータとして蓄積されるのは新鮮であるし、これだけの少量のデータでも改めて見返してみると自分がどれだけ色々なものを食べているのかに結構驚く。
そしてなによりも、こういったデータの羅列はなぜか妙な説得力を持っているように思えるのが不思議である。
しかし、そんな説得力も良く考えれば全く意味を成していないのがよくわかる。たとえ私の食べたものを全て分析しても、私と言う人間が少しでも理解できるとはとても思えない。
水分と気体を除いた、食物という物質的なインプットを全てデータ化したとしても、その物質で構成された存在の本質の一部でさえ全く理解できないというのは考えてみれば凄い事である。
「なんでも数値化するとわかったような気になる」のは確かだとしても、一つ何かをわかった様な気になればそれに隠れていたまた別の幾つもの謎や疑問が浮かび上がってくるのも確かである。
知れば知るほど、学べば学ぶほど、謎の深さと広さが拡大してゆく感覚が知のレベルでは当たり前のものだとしても、それを物質としての自分自身に感じるのはちょっと気持ち悪い。
自分を知る試みというのは、裏を返せば自分自身の知らない所と知りえない所を知る試みでもある。
知れば知るほど自分が他人になって行くのでは本末転倒ではないかと思わなくもないけど、なにかしらの真実に近づいているような皮膚感覚も無いことは無い。
「無知の知」とは良く言ったもので、自分の食べたものをメモっているだけでこんな袋小路に追い込まれるとは思わんかった…