復讐するは誰にあり?

「私、男(女)運が悪いんです」という人に対して「悪いのは男(女)運じゃなくて貴方の性格では?」という、空手や柔道の返し技の型のごとき、「ぬるぽ」に対する「ガッ!」のような、余りにも鮮やか過ぎてリアルでは実践できない、典型的な返し手がある。
それは、自分の精神的な問題に端を発している事を周りの環境のせいにしている者に対する一撃必殺のクロスカウンターであるが、それとは全く逆に、もうこれは周りの現実的な環境が理由であるとしか思えない事による辛さに対して、自分自身の精神を変えることで対処しようとする人もまたいる。
それは、自分が良い人になれば何とかなると信じてドメスティックバイオレンスに耐え続ける妻や、私が良い子になれば優しくして貰えると信じて虐待に耐える子供のようなもので、そこまで傷つきながら環境なり自分なりを変えて適応しようとせず、さっさと逃げ出してしまうのがベストとしか思えない。
結局そういった人は「逃げてー!」「後ろ後ろ!」「逃げなきゃダメだ!」と言った声を聞きながらも、逃げ出さずに最後まで耐えようとして、最後は力尽きてしまう事が多いように見える。
更に、このようなタイプの人に限って貧乏くじを引かされているようにしか見えないのは、もう居たたまれないだけでなく妙な怒りすら沸いて来る。
そして、今度はいくら怒ろうとも、ほんの少しでさえも何も動かせない自分自身に腹が立ってくるのである。


上山和樹氏は彼のブログの中で

制度内にいる人間は、制度のやり方に従うかぎりいくらでも酷いことができる。 制度内の人を攻撃するには、同時に制度そのものを批判せねばならない(批判者は、制度と対立してしまう)。
制度外の人間は、そのつど自己弁護を強いられる。 しかも、弁護の方法論から建て直さねばならない。 既存ロジックでは「間違い」とされる言動を、自分で弁護理論まで再構築しつつ、正当化しなければならない

と書いていた。
制度内に組み込まれていて、かつ制度外であることを強いられる人の孤立無援さはどれほどのものだろう。
パウロは

愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』

と言ったが、神を持たない人間はどうすれば良いのだ?

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