蝉の死骸を見て戦場を思う

朝、職場に来ると木の周りに延々と蝉の死体が転がっている。
真夏にあれだけやかましく鳴いていた声の主である蝉は死体となって木の根元に転がり、あたりに蝉の声はない。
それはただ単に夏の終わりが近くもうすぐ秋がやってくるのを感じるといった単純な光景であるだけではなく、なんだか熾烈な戦闘が行われた後の戦場のようにも見える。
考えてみれば蝉にとっては生きることそのものが戦いであるし、現実の世界はまさに戦場そのものであるだろう。
蝉たちは地上に出て木の樹液を吸い、木や電柱にとまって大きな声で鳴き、相手を見つけて交尾して子孫を残すわけであるけど、
それら生活活動の全ての時間があらゆる種類の死の危険と隣り合わせであり、殆ど例外なく秋を迎えることすらなく死んでゆく。
数年間もの長い間を地中で暮らし、地上に出て数週間以内に死んでゆく蝉の一生を考えてみれば、地中にいる数年間が彼らの本当の人生で夏の地上での生活はただのおまけの人生に過ぎないのか、それとも、地上のひと夏で華々しく散るために地下の数年間があるのだろうか。
どちらをとっても正しい答えでありそうであるし、また間違った答えであるようにも思える。そんなことに答えが出せよう筈もない。
見ようと思えばどちらにも見て、捉えようと思えばどちらにも捉える事が出来るというのは、結局の所元々そこに本質的な意味などないことの現れであるように思える。
そして、よくよく考えてみれば我々の生もこの死体となって横たわる蝉たちと大した違いはなく、我々の日々の生も本当に絶妙なバランスの上にかろうじで成り立っていることを思わずにはいられない。
「蝉の人生」がそうであるように、我々の人生一般についても、本質に関わるような違いに見えるようなさまざまな事どもも、殆どの場合はただの見方の違いにしか過ぎないことが多いのだろう。
どこに主眼を置くかで生き方に対する捉え方などいくらでも変わってくるのだ。
我々の人生が殆ど蝉の人生と同程度であり、そこを生きる事に本質的な意味など無いという事は、逆に言えば捉え方によっていくらでもその意義が変わりうるという意味合いで何かしらの救いのようにも思えるのであった。

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