うららかな昼下がりに、肉親の死について、とてもカジュアルに語る事の出来る年齢

前までは毎日顔を見かけていたのに最近姿が見えず、一週間ぶりくらいに見かけて話をした人がいた。
どこか旅行にでも行っていたのかと聞いて「母が亡くなった」と答えを貰い言葉を失った。
元々おとなしい殆ど喋らない人であるけど、なぜか私には良く喋ってくれるような印象を持っている人である。
いつもと変わらず繊細な笑みを浮かべながら発せられるその言葉のトーンからは「母を亡くした娘」から自然と現れるであろうと私が予想するような種類のものは全く感じられなかった。
その人の母親を亡くした事について語る言葉がまるで日常を語るように語られたのにとても驚いたのだ。
まずはお悔やみを述べて、それから余りにも落ち着いていてそういう風に見えないことにびっくりしていると伝えると、
お母さんは長い入院生活の末に亡くなった事、そして自分が思っていた以上に落ち着いて普通に過ごせている事に自分自身でも驚いていることを語ってくれた。
語られない事の裏にとても色々な物語があったことを感じさせられたし、また、死ぬ人にとっても死なれる人にとってもある程度の覚悟が出来ていたようにも感じられた。
死に至るまでの間を散々苦しんで悩んだお陰で、実際その時が来てもその悲しみは比較的穏やかなのかもしれない。
闘病の末に肉親を失った人に見られることの多い穏やかな悲しみを闘病の時点からの苦しみや悩みも含めて捉えて、昨日まで元気だった肉親を事故で突然失った人のあふれ出るような激しい悲しみにと比べてみると、人間の感じる悲しみの総量というものはある程度一定なのではないかという気がなんとなくした。
人間の悲しみについても熱力学第一法則のようなものが、つまりは悲しみについてのエネルギー保存の法則のようなものがあるのかもしれない。
そして気がつけばキューブラ・ロスの話からヒンズーのカーストの話、さらにミームの話からアポトーシスの話、なぜか三島由紀夫の『豊饒の海』シリーズの話までしていたような気がする。
そういえば私の友人や知人にも父や母を亡くす人が多くなってきた。
うららかな昼下がりに「肉親の死について」さらには「死にまつわる色々な事」をとてもカジュアルに穏やかに、絶対に避けて通れないものだと前提した上で話が出来る年齢になっている事に気付いたのであった。

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