そんなに差はない
生老病死の前ではちょっとした楽しみなんか本当にどうでも良いように感じられるのが理解できるような気がした。
楽しみをすべて二義的以降のものとして悟りへの道を歩もうとする気持ちも良く分るし、そんな楽しみが無ければ人生なんかとても味気ないと言う気持ちも良く分る。
どちらが正しいと言うよりも、そんなちっぽけの人間のする事なんか、大きな視点から見ればどちらも大した違いはないのかも知れない。
それでも、感じ考える主体は全体としての人間や大きな視点や部外者からの視点になどあるわけでなく、個々の人間の中にあるのであって、「その人にとって」が何かを感じ考える事の範囲にしかなりえないとすれば、すべては許されると言う意味合いで善くもあり、なん人とも解り合えない、と言う意味では悲しいことでもある。
いずれにせよ、今の時点の自分にとって、何を一番優先すべきなのかと言うところから諸々の方向性は出てくるのだろう。
目の前にあるように見える様々な選択肢を選ぶにあたり、自分の都合と欲望だけを基準にすることなんか出来るわけが無いし、社会生物とはそういうものだろう。
午前、午後に病院での用事を済ませ、夜から鍋会に参加。
魚を買っていって、持ってきたMy包丁で片身を刺身に片身を鍋の具に、残りのアラで潮汁を作る。
料理が不得意で魚なんか捌いたことが無いと断言するギャラリーが取り囲む解体ショーと化した魚おろしに「手術してるみたい」「めっちゃ真剣」と声がかかり、そうか、俺はいつもはそんなに不真面目かと軽く凹む。
とりあえずオペは成功し、満場の拍手をもって綺麗な三枚おろしと綺麗なアラに切り分けられた魚たちの果敢な死に様を称える。
命の移動、従属栄養生物の業とはこういったものである。
集まった俺以外の人間はすべて家でパソコンはおろかネットすらしない人たちで、ネットがないと生きていけない感覚なんか決して理解できないらしい。
俺自身は彼女たちをちょっと変わった奴らだと思っていたけど、どうやら「変わったと思う俺が変わっているだけ」と言う事らしい。
俺は自分自身を変わったほうの人間だと思っているけど、彼女たちは自分が普通の種類の人間だと思っているらしく、そこが根本的に違う。
「何を普通するかはとても難しい」という一般論は別にしても、個々の人間に注目してみれば「変わった人」に見えるし、全体の一人としてみれば「普通の人」に見える。
結局「普通」だとか「変わっている」だとかはそれほど大した問題じゃないし、もしかしてそんなに差なんか無いのかとハマチとトビウオと豚のキムチ鍋を食べながら思った。
いや、やっぱり差はあるか?