生きてゆくための愛ゆえに
あまりにもダイレクトで大げさなタイトルにひかれてついつい許光俊『生きてゆくためのクラシック』を読み始めた。
かつてチェリビダッケやヴァントが指揮するものすごい演奏に遭遇したとき、私は心底、「このようなものを聴けるのだったら、生は意味がある。豊かである。このようなものが聴けるとは幸福以外の何物でもない」と思い込むことができた。
~中略~
私にとって「世界最高のクラシック」とは、生が生きるに値すると納得させてくれるものなのだ。
と、この本の冒頭にあるように、「生きてゆくための」という文は、もちろん「生計を立ててゆく事」ではなく「絶望して死なない事」という意味で使われているわけであり、
この本は、そんな彼がこれを聴くだけで生きてる価値があると思わしめる録音を紹介しているという、キモい系のクラシック好きはついつい釣られてしまう本となるわけである。
そういえばちょっと前までは「生き残るための~」とか「生き延びるための~」というタイトルの本がやたらと多かったような気がする。
どうやらそれは一時的なブームだったようで最近そういうタイトルの本を以前ほど見かけなくなって、今度は逆に「なぜ生きるか」とか「なぜ死なないか」などという言葉を聴いたり文を読んだりするといつも決まって岡崎京子の『pink』なる漫画の台詞を思い出すようになった。
以前にも同じ台詞を引用したことがあるけど、この本はバブル真っ盛りの東京を舞台にした、1日10キロの肉を食べるワニを飼うために売春するOLの主人公の物語で、作者曰く「愛と資本主義」wをテーマした漫画である。
で、その主人公の女性がある夜に売春でいやな客にあたって心が荒んだ帰り道にピンクの薔薇を買って、
本当にきれいな色だなぁ
お金でこんなキレイなもんが 買えるんなら あたしはいくらでも働くんだ
ピンク色って本当に
好き
とつぶやくのだ。
私はこれをはじめて読んだときに「ピンク色」が人が生きてゆく原動力となりえるということにとても衝撃を受けたのだ。
最近は、その人の生きてゆく原動力であったり生きてゆく理由が、冒頭の許光俊氏のようにクラシックでも、恋人でも家族でも、仕事でも趣味でも、そしてPinkの主人公のように「ピンク色」であっても、対象が何であれ「好き」という感情を持っている事そのものが生が生きるに値すると納得させてくれるのかもしれないと思うようになった。
そしてさらに、そんな、我を忘れるほどに何かを圧倒的に好きなものを持っているという事そのものが、、恩恵といってもいいほどのかなり恵まれた状態なのではないかとも思うのであった。