「ガレとドーム-四季の花」/世紀末的ガラス細工

またしても展覧会の話であるが、先日、京都伊勢丹でやっていた「北澤美術館所蔵 ガラス・コレクション ガレとドーム-四季の花」展に行ってきた。
19世紀末から20世紀はじめにかけてのフランスのいわゆる「アール・ヌーヴォー」の時代に活躍したガレとドーム兄弟のガラス工芸品の展示会である。
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「アールヌーボーのガラス工芸品」と聞けば大抵の人がやたらと華奢で繊細なものを思い浮かべるのではないだろうか?
しかし、この展覧会で展示されていた、主に花瓶などのガレとドームのガラス工芸品は妙に骨太で力強い印象を受けた。
ガラスという素材そのものはとても脆くて壊れやすいものであるのに、そのガラスで作られた製品をやたらとタフで生命力にあふれていたり肉感的に造形するというのは、なぜかやたらと退廃的でグロテスクな印象を受ける。
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左側がこの展覧会で私が一番気に入ったドームの「鈴蘭文花瓶」、すずらんがただの模様じゃなくって立体的にボコボコ飛び出しているのだ。そして右側が一番グロくて肉々しくおまけに何ともいえないエロさを醸し出していた「花形花器」である。
それらがただ華奢なだけのガラス工芸品には絶対無いような、妙な迫力と存在感を持って迫ってくるのがお分かりいただけるだろうか?


このアール・ヌーヴォーの興った19世紀末の美術は私が最も好きなもののひとつである。
有名どころのミュシャや、このガレやドームの活躍したアール・ヌーヴォーはパリを中心にした工芸的な流れであるけど、同時代のウィーンでのウィーン分離派のクリムトやシーレ、或いはノルウェーのムンクなど、なぜか私が好きな画家は19世紀末に集中している。
私がこのクリムトやらシーレやムンクを好きなのは、彼らの絵の中に全く逆のものが内在しつつもしっくりと調和しているのが顕著に見えるからだ。
たとえば、よくいわれるように、生と死やとか性と俗やとかロゴスとパトスとかエロスとタナトスとか美と醜とか狂気と正気なんつーものが一つの絵の中に混ざり合いながら迫ってくるのですな。
なんつーかもうカラマーゾフ的ってやつである。ってこの『カラマーゾフの兄弟』自体が19世紀末の小説ですわな。
19世末は科学文明が発達しつつ、あらゆる価値とあらゆる前提が根底からひっくり返しつつあった時代であった。
変わり行く生活を肯定的に謳歌した「印象派」的な人々とは対照的に、その暗い面ばかりを見つめたのが同時代のルドンであったってなことを以前「ルドンとその周辺-夢見る世紀末展」」の感想に書いた。
私の中でもまさに混乱した19世紀末のように、ありとあらゆる二律背反、二項対立、自己矛盾、そういったものが渦巻いており、そしてそれこそが私を形作っている。
私が印象派ではなくクリムトやシーレやムンクを好きなのは、ルドンのようにただ物事の暗い面だけを見つめる傾向があるというだけではなく、彼らの絵のように自分の中にある全く正反対のモノの調和を欲しているからかもしれない。
私の中で渦巻くあらゆる対立するそれらをそのままで調和として捉えらればどれだけいいだろう。
私が特定の19世紀末の絵画を見るとき、その中に私の中で渦巻くあらゆる対立するものが調和するヴィジョンを見ているのかもしれない。
それは自らの内宇宙での時間と空間に関する限界、或いは内宇宙での因果と自由についての問題、いわゆるアンチノミーとかいわれる問題なのである。
目下私の中で最も切実で最も大きなアンチノミーはこれ。
「夜中に食べるカレー(もしくは親子丼)」である。
「あーこれ絶対太るわー絶対プクプクなるわー」って思いながら食べる、真夜中のカレーや親子丼の美味しいこと美味しいこと。
自己破壊にも似た背徳感と恍惚と陶酔の入り混じったこの瞬間はまさに世紀末的ではないか。
これをアンチノミーといわずして何と呼ぼう。
…いや、それはただの「食いしん坊」やね…
美術館を出たところにある売店で、アールヌーボーでもなんでもない「北澤美術館液だれしない醤油さし」が欲しくて欲しくてしょうがなかったのも私が食いしん坊のせいかもしれない…

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