「浮世絵の夏 -納涼と花火-」@美術館 えき/浮世絵はなんか知らんけど流行ったアールヌーボーみたいなもんだー

そういえば先週末に、JR京都伊勢丹の「美術館 えき」で開催されている「浮世絵の夏 -納涼と花火-」に行ってきた。

国貞、国芳、広重といった有名どころの、サブタイトルになっているような納涼とか花火といった夏がテーマの、主に19世紀末の浮世絵を集めたものである。

「納涼」がひとつのテーマとはいっても、夕涼みの風景だとか蚊帳や花火や浴衣が描かれている「内容のテーマ」だけでなく、夏とは関係ない絵柄が書かれた団扇絵といった納涼としての「用途のテーマ」の展示もあるところが面白い。

浮世絵はモディリアーニとかゴッホみたいに当時全く評価されなかったわけでなく当時から文化の最先端を走っていたものであり、扱う内容も純粋芸術的なものから人気役者やら浴衣や着物や美人画や春画までありとあらゆる題材をとり、かつ眺めるためだけのものでなく挿絵から漫画から羽子板から団扇まであらゆる用途に使われた非常に多様性のあるものである。

ちょうど19世末の同じ頃、フランス語圏でのアールヌーボーとかドイツ語圏のユーゲントシュティールとかウィーン分離派などといった新しい美術的なジャンルの運動が、純粋芸術ではない実用性のあるものと融合することで生まれたわけであるけど、アールヌーボーが日用品だけでなく本の表紙、挿絵、ポスター、絵はがきといったところまで網羅しているところを見ていると、浮世絵もシンクロニシティ的であったり独自的な自然発生として世界的なアールヌーボーの流れに乗っていたともいえる。

考えてみれば、当時のヨーロッパも日本もメインの文化の担い手がすでに王侯貴族から市民や町民といった庶民(といっても金持ちやけど…)に移っていたわけで、当然浮世絵もそういった層をターゲットにしてどんどんポップ化していったのだ。

ヨーロッパのアールヌーボーやウィーン分離派が旧来の芸術への反発や決別といった攻撃的な側面と世紀末芸術的な退廃的な暗さを持っていたのに引き換え、アールヌーボーとしての浮世絵のにそういった側面は皆無である。

そう考えると日本の大衆文化ってのは対立と否定から生み出される気負ったものではなく「なんかしらんけど流行ってる」とセットになった「いつの間にか忘れ去られている」ってところが人気の秘訣なのかもしれないんだぜー

浮世絵が後に欧米の印象派から純粋芸術のジャンルの「ジャポニズム」として1つの運動として捉えられるほどに評価されたように、現代日本の文化も最近になって旧来から続いてきたアニメとかファッションとか食べ物が、海外でもmanga、anime、kawaii、sushi、hentaiなどなどといったジャンルとして、そのままか勘違いされて世界中に強烈な影響と大量の賛同者や追従者を生み出しているわけである。

浮世絵が流行った後の時代の明治維新で日本の社会体制はごろっと変わり、そのままの勢いで突っ走って行って太平洋戦争に負けてまたごろっと変わってしまったけど、ヨーロッパでよくありがちな革命が起こったら前の権力者や体制を全否定したりせずに、庶民からすれば「なんか知らんけど時代が変わってる」わけで、いうなれば以前の権力者や体制を断罪せずに「いつの間にか許している」事にもなる。

ってなんか浮世絵はアールヌーボーだ!ってことを書いているつもりが日本文化論みたいなたいそうな話になってきたけどw

ウィーンの世紀末美術が大好物である私であるけど、ちょうどそれと同じ時代のこの展覧会で描かれている江戸の町人のように、自分自身に対して日本文化的に「なんか知らんけど変わっている」と「いつの間にか許している」ところを目指して「ええじゃないかええじゃないかよいではないかよいではないか」の精神で、それでもウィーン世紀末美術のように崩壊と退廃を見つめつつ生きてゆこうと思った。

とムリヤリまとめるのであった。お、おぅ…

 

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