日本画にみる「さくら」展@美術館「えき」@伊勢丹京都
伊勢丹京都の美術館「えき」で開催されている、<日本画にみる「さくら」展>に行ってきた。
この展覧会はタイトルの通り、「さくら」を題材にした、横山大観、川合玉堂、菱田春草、上村松園、小野竹喬、堂本印象、福田平八郎、池田遙邨、伊東深水、東山魁夷、加山又造、上村淳之、中島千波などの有名どころをメインにした日本画を集めたもので、中々春らしいテーマどす。
全般的にこの「美術館えき」はどちらかと言うとコンテンポラリーな方向性の展覧会が多いような気がするせいか、そのお客さんの年齢層も割りと低めのような気がするのだが、この展覧会に関してはテーマがテーマのせいかお客さんの年齢層が割りと高めだったように思う。
展覧会でひたすら咲きまくる桜の中、パンフレットにもWEBにもどこにも載っていなかった、私が最も好きな日本画家の一人の福田平八郎の、その中でも最も好きな絵の中のひとつである「花の習作」が展示してあった。
こういった「桜」をテーマにした展覧会が開催されるほどに、日本人にとって「桜」はとても特別なものであるせいか、「桜」をテーマにした殆どの作品はやたらと気合が入っていて、一つ二つならまだしもずっとそんな絵ばかり観ていると暑苦しくなってくる。春なのに。
そんな中でこの福田平八郎の「花の習作」の力の抜け具合はどうだろう。
この絵は一般的に「日常の中の美を切り取った」的に評される事が多いけど、しかし本当にそう単純化してしまっていいのか?この絵で描かれている情景が本当に日常に属するのか?と私は思う。
よく考えればこの絵は単純に「桜」を描くよりも成立条件が厳しいではないか。この絵は日常を描いたように見せかけながらも、実は様々な偶然が積み重なってやっと起こる奇跡の瞬間を描いているのだ。
2回裏返って元に戻ったかのような、その奇跡の瞬間をごく当たり前の日常であるかのように描いてしまうのはこの福田平八郎という人の画力であろう。
彼の描く絵は圧倒的な圧力で持って覆いかぶさってくるタイプの外圧的な美ではなく、むしろ自分の内部の中にある審美中枢のようなものを激しく揺さぶってくるような内圧的な何物かがあるように思う。
「桜」なる存在そのものは、どちらかといえば前者の外圧的なタイプの美であると思うのだが、その桜をテーマにしてさえ彼はそこに内圧的な美を見出しているのだ。
いやー福田平八郎はすばらしい!どうよ?
って展覧会の話じゃなくって福田平八郎の話になってしまったけど…
そんな彼の絵が(一点だけやけど)観賞できるこの展覧会は2014/4/22までだ。いそげ~
実物を見ると更に幸せを感じます。
ぜひぜひ実物をご覧になってください!
京都国立近代美術館が所蔵してますので、常設展に時々出てきたり…するのかな??
「花の習作」って初めて見たのですけれど、なんか幸せな気分になる絵
ですね。いいなぁ。