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2009年8月25日

斎藤環 『社会的ひきこもり―終わらない思春期』 /ひきこもりよ、ひきこもり利権を利用しろ

斎藤環著の『社会的ひきこもり―終わらない思春期』 を読んだ。
ひきこもり事例に精神科医として長年向かってきた著者による、1998年に出版された本であり、本の前半でひきこもりとは何か、ひきこもりとは何が起こっているのか。に焦点があてられて述べられ、後半では実際にひきこもりをどう克服するのかについての主に家族に対する基本的な対処のスタンスが述べられている。
以前から私はひきこもり属性であると言っているが、私はこの本を過去形ではあるけどひきこもり当事者として読んだ。
最初読み始めてまるで自分のことが書いてあるようで読んでて辛くて辛くてしょうがなかったけど、そこを抜けると面白くなって一気に読み通した。
自分自身も当事者ながら、なんとなく「ひきこもり」は本人の個人の問題という印象を持っていたのだが、この本ではひきこもりを精神疾患として、「ひきこもっていること」それ自体が外傷体験になる、主に嗜癖やら人格障害の方面から環境も含めた総合的な問題としてとらえる方法論がとても新鮮だった。
10年以上前に書かれた本であり、この手の本としては古いのかもしれない。しかしながら根本的なところは何も変わっていないのだろう。


この本のサブタイトルに「終わらない思春期」とあるように、この本の言おうとする所は、「ひきこもり」の根本的な原因は自分と家族と社会の関係、つまりは他者との関係不全の問題になってくるようにおもう。
他者との関わり方に問題が起こり、ひきこもっていること自体がまた問題を助長させるという風なシステム的な悪循環が「ひきこもり」であるというわけである。
ゆえに「ひきこもり状態」を解消するには、本人だけの努力でも家族だけの努力でも不可能で、社会的な接点が不可欠である。ということになる。
私が私自身の経験を振り返って考えてみるに、過去の私がひきこもり的状況から脱したのは大学に合格して大学に通うようになったからである。何かしらの劇的な精神的な変化など皆無であった。
そして、今まで、私の中でこの経験は、状況や環境が変わったから何らかの改善が見られただけで、私の中にある根本原因が改善されないままである。とずっと捉えられていた。
私は今まで自分の中にあるはずである「ひきこもり因子」やら「根本的な人格的欠点」を見つけ出して解消すべく結構な努力を費やしてきたように思う。
しかしながら、私はこの本を読んで、特に自分自身に原因があったのではなかったのかもしれない。と思えるようになった。
この本を読むにつれ、自分がひきこもりのほんの初期の初期段階に過ぎなかったことを知った。私はずっと自分自身を、過去にひきこもり経験を持つ、ひきこもり属性を持つ、ひきこもりの味方であると捉えてきた。しかし、この本を読んで「お前なんかひきこもりじゃねーよ」と言われたような一抹の寂しさを感じた。
しかし私がここで踏みとどまっていられたのは、当時一緒に遊んでくれた友と、私と関わりのあった幾人かとの繋がりのおかげであると思う。また私が引きこもりに戻らずにここまで来れたのは、私といつも遊んでくれる友人たちと、私を愛してくれる人々、そして私を必要としてくれた社会のおかげでもである。
プチひきこもりであった事自体は私にとって苦しい事であったけど、そのプチひきこもり期間で得たものはとても大きい。と今なら自信を持って言い切れる。
この本いろいろな感想をネット上で読んでいて「ひきこもり利権」という言葉を読んで思わず笑ってしまった。
今時は過去にひきこもり経験を持つ現在成功している人物はそれだけで何かしらの価値が生まれる世の中である。「ひきこもり」がいつか大逆転できるような世の中が来るかもしれない。
「ひきこもり利権」をひきこもった事も無いのにひきこもりだと名乗るような「似非ひきこもり」に渡してはならない。
ひきこもりであった人が、ひきこもりであった事を利用して、或いはひきこもっている間に得た何物かを持ってひきこもりから脱してゆく事を願わずにはいられない。

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