虐殺器官/限りになくSFに近い純文学
現代化から見てとてもリアルに感じられる世界情勢とテクノロジーのあるディストピアな未来を舞台にした「暗殺」を専門にする軍の情報特殊部隊の構成員が主人公の、世界各国の発展途上国で起こる「虐殺」をプロデュースする「標的」を追う物語だ。
主人公は現場での実働部隊の軍人でありながら「言葉」に拘りをもつ文学好きで知的でナイーヴで傷つきやい青年でとても幼くすら見える、「そんな装備メンタルで大丈夫か??」と言いたくなるようないかにも古典的で純文学的な内面を持つ人物だ。
この主人公の幼さは著者がインタビュー述べているように「成熟が不可能なテクノロジーがあるから主人公は成熟していない」と意図的なものであるようで、それは肉体が本来感じうる「痛み」を脳のモジュールへのフィルタで客体化し、良心が感じうる「痛み」を指揮命令系統の徹底や心理、医学的措置によって外部化することでキャンセルしている事に依るように見える。
良心の痛みを「罰」とすることで精神の浄化を行うといったテーマの根底は、例えばドストエフスキー的なテーマであり、また「罰」としての肉体的な苦痛そのものを浄化のプロセスとするのはカフカの『流刑地にて』などで語られるような古典的で文学的なテーマである。
しかしこの本の中ではそういった良心や肉体の「痛み」がテクノロジーによって軽減されることにより人間としての成熟を阻害しているという視点が今までにない新しいものであると思う。
この本では、内戦とジェノサイドの問題、富の分配の問題、政府機関のアウトソーシングの問題などのようなテクノロジーの発展による社会的な問題について数多く語られており、一見まさにそれらがこの本のメインテーマのように見える。
しかし、主人公自身が苦悩するのはそんな大きな問題ではなくテクノロジーの発展によって増幅されることになった人間としての成長や成熟過程で直面する実存的で本質的な限りなく個人的な問題である。
この物語でたびたび語られる「言葉」が人間の一つの「器官」であるとするチョムスキーの生成文法的なとらえ方は、人間の中には「良心」と「残虐性」がモジュールとして独立して存在するというガザニガの脳科学的な視点を補強するものである。
それを文学的に言えば天使のような聖性と悪魔のような邪悪性の両面といった正反対の属性を矛盾することなく内在するのが人間であるといったような、19世紀的でありドストエフスキー的な人間観である。
そういった古典的な文学のテーマではそんな人間の在り方と人間の成長が良い事として描かれるわけだけど、この物語ではそんな単純で古典的な個人の成長を描くだけのものではない。
その人間観を前提することで肉体と良心の痛みをわが身に引き受けずに自我と倫理観だけが膨張した主人公の幼さと、自ら引き起こした大量の死の責任を自らに引き受けて愛するものを守ろうとする「標的」の成熟性の対比が強調されたうえで、成熟そのものが果たして良いことなのかどうか、といったテーマも含まれるように思う。
凄惨な環境に身を置きながらも幼さを克服できない主人公の苦悩は、我々が『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン少年の未成熟さによる美に心打たれるように、それは未熟な人間からすれば成長や成熟していると言われる人間が醜悪にしか見えず、成熟が果たして良い事なのか?と問う20世紀文学的なテーマでもある。
この物語はSFでありながらも限りなく19世紀と20世紀の純文学的なテーマを同時に問う文学であるようにも思う。