伊藤計劃『ハーモニー』/高度福祉社会でのカミュ的実存問題を問う

『虐殺器官』ののちに起こった「大災禍」から生き残った人々は「国家」という枠組みではなく「生府」なる高度に発展した医療システムによる統治機構を生み出し、寿命か事故以外では人が病み死ぬことのない完全な医療福祉社会を実現していた。
そんな世界の中で息苦しさを覚える少女たちが主人公の話だ。
高度福祉社会を描くことでよりコントラストが高くなって浮き出てくる生命の尊厳や自由意志にまつわる「福祉国家」のはらむ矛盾のような社会的なテーマを扱っているように見えるし、物理的な範囲での地理的な枠組みの「国家」を統治の単位とするのではなく、ネットワーク的な範囲での医療的な枠組みを統治の単位とする社会機構はとても面白い。なんとなく「なめらかな社会とその敵」で描かれた「PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論」を思い出した。
高度福祉国家で人は如何に病むのか、統治機構は如何にあり得るか、そしてそんな社会は何をもたらすのかといった確実に未来に訪れそうに見える社会の姿とその中にある問題を浮き彫りにしているかのように見える。

しかし、作者のデビュー作である前作の『虐殺器官』同様に結局テーマは個人的な「成長」「肉体的痛み」「浄化」そして「自死」といったところにフォーカスしているように読める。
この作品で描かれる社会のように自分の健康とを何らかのシステムによって維持するということは結局自分の生命そのものをそのシステムにゆだねることと同義である。そこには自らの身体の自由も生命の自由すらない。
「生殺与奪の権を他人に委ねるな」という某アニメの名言とされる言葉があるけど、そのシステムへの依存を減らすことは、すなわち生殺与奪の権を取り戻すことで自らの身体の自由と自らの生命の選択肢を得るということは逆に言えば不健康であることを自ら選択することであるし、さらに突き詰めて言えば自ら死を選択することでもある。
もう何度も書いているけど

本当に重大な哲学の問題は一つしかない。それは自殺である。人生が生きるに値するか否かを判断すること、これこそ哲学の根本問題に答えることである。それ以外のこと、世界は三つの次元をもっているかどうか、精神は九つの範疇をもつのか十二の範疇をもつのか、などというのは、それから後の問題である。こういったことは遊びである。何よりさきに、先ず哲学の根本問題に答えなければならない。

といったカミュの言葉がまさにリアルに浮き上がる。

作者自身がこの作品を死の淵を彷徨いながら入院中の病院で書き上げたということを合わせて考えてみれば、普通の生活とは全く違うギリギリのレベルの切迫感をもって、生命とその尊厳や個人と社会のかかわりや意志と要請がせめぎあう場所で、まさにニーチェの言う「血をもって書かれた」実存的な考察であるように思える。

常々私は「SF」というフォーマットはある時代のテクノロジーが発達(あるいは消失)した世界を前提とすることでその中に生きる人間存在とその社会の真実や問題をより鮮やかに浮き彫りにするものだと思っている。ただ単にテクノロジーの未来や過去を示すのではなく、そこに人間と社会そのものへの根源的な問いかけと問題意識があってこそだと思っている。
例えば以前観た医療システムのAIが暴走する恐怖を描いた映画「AI崩壊 」などはそういった社会とそのシステムの持つ恐怖や問題点について描いてある。しかし、その先、人間存在そのものに対する問いかけはあまりないように思う。
この伊藤計劃という人の作品はその未来の問題や恐怖だけでなくその根元にある人間存在こそをテーマとしているように見える点が決定的に違う点であり私の心に響くのだ。

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