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2009年9月13日

上山和樹:『「ひきこもり」だった僕から』 / ひきこもり追体験ブック / 世界の中心で「だが断る」を叫ぶひきこもり

2001年に出版された上山和樹『「ひきこもり」だった僕から』を読んだ。先日読んだ斎藤環の『社会的ひきこもり―終わらない思春期』がひきこもり経験を持たない医者である著者の視点から書かれたのに引き換え、この本はひきこもりを脱した(とされる)ひきこもり当事者によって書かれた本であるというところに大きな意義があるらしい。
現在の著者はひきこもり経験をもとにした講演や著作活動を行っている人であり、一般的にはどちらかというと文化人的なポジションを獲得して脱ひきこもりを果たした人といううことになる。
この本の前半は「これまで(自分へ)」として彼が生まれて育ち、引きこもりになり、ひきこもりがこじれにこじれてしまい、それから今に至るまでの彼の人生を、そして後半の「いま(いまから)」の章は現在の彼が講演のような形式で、ひきこもりについて、またひきこもりをどう理解すれば良いのかについての彼の思いを語っている。
この前半の章ははたから見ればただブラブラだらだらグダグダしているようにしか見えない(らしい)ひきこもり当事者の心の中がどのような地獄絵図になっており、日夜どのような責め苦に休むことなく苛まれ、自ら苛んでいるのかがよくわかる。「ひきこもり」がそれ自体で心的外傷となる所以がよく理解できよう。
そして後半は彼が「ひきこもり」を社会に対する問題定義で、世界と人間に対する意味論の文脈での問いであると捉え、そこからの脱出を巷にあふれる精神論でなくリアルな方法論で述べている。


これだけリアルに赤裸々に語られる彼のひきこもり体験が妙な感動を呼ぶのは、「人の苦しみは尊い」という大前提があるかもしれない。そして何よりもこれだけ自らを語ってしまう作者に敬意を表したいと思う。
作者は「秘密のマネジメント」として、ひきこもり属性の人は他人に何を何処までしゃべって良いのか判断しづらいという興味深い見解を上げている。一般的に一般書籍でここまで自分をさらけ出すのは相当勇気がいったと思うが、逆にそうする事でこの著者にとって色々な事が上手く回り始めたように見える。その「秘密のマネジメント」の不得意さは欠点ではなく長所では無いのかなと個人的には思う。
前半を読むのは心的外傷としての「ひきこもり」を追体験するくらいの辛さであったし、経験の無い人にとってもそれがどれだけの辛い経験になるのかがわかるかも知れない。
この本の前半のそういったひきこもり体験ブックな側面は実体験としてのひきこもり理解に意義があると思う。
例のごとく、元当事者である私にとって、この本は読みながら笑ってしまいそうな位に共通点が多く「お前は俺か!」と突っ込みたくなるくらいの共感を全編にわたって感じた。
この本の著者は大真面目に自分の問題として哲学的問いと呼ばれるものを発して自ら考え込んで、古今東西の文学と哲学の本を乱読しはじめ、自らのひきこもり行為を哲学的知的追求の機会として正当化しようと試みる、ある一つのひきこもりのタイプの典型であろうか。
彼がこの本でここまで自らの苦しみを開示して見せたのは、純粋な自己表現欲求や彼自らが発言する事でひきこもりの人の役に立てば良いと思う気持ちだけでなく、なによりもひきこもり自体をネガティブに捉えず、ひきこもりを一つの自己表現として捉え、自らがひきこもることで発した問いを、正当なものとして世界に向けて問い直したいというポジティブなところによるのではないだろうか?
この立場は治療者や支援者では決して持てない、当事者でしかとりえない立場であろうと思う。
ひきこもり当事者は自らのひきこもりを恥じることなく、自らの疑問を自らに対してだけ問うのではなく、世界に対して問うことで、何かしらの苦しみの救済への試みになるのかもしれない。
そしてこの本の後半ではひきこもりから見えてくる社会の問題と、ひきこもり自身の彼らが如何にその苦しみから脱するかという二つのテーマでひきこもりについて論じている。
彼はひきこもりを社会や世界の現状の矛盾や問題をみずからに背負ってしまったような「弱すぎて負けてしまった正義」として捉えている。世界の正義で価値だと呼ばれる様々な「建前」と、実際にそこにいる人自身が苦しんで嫌がっているという「事実」のダブルバインドに疑問を持って引き裂かれ混乱していると言うとわかりやすいだろうか。
彼はひきこもりに関連したもっとも重要なテーマの一つとして
「世界を意味で縛り付けることなしに、どうやって自分なりの正しさを生きるか」というふうにまとめられると思います。そしてここにさらに、「それを、経済生活と両立させながら」と項目が加わる。
教義やイデオロギーに縛れることなしに自分なりに「正しい」と思えることを実行していて、それでいて経済生活も成り立たせること

と言っている。そしてまた
実は「信仰」の問題は、個別具体的な宗教の問題とは別に、「ひきこもり」の根本テーマだと思っているんです。
ひきこもりにおいては、この「日常生活における努力を支える信仰のようなもの」が、崩れてしまっていると思うんです。

とも言っている。
これらは現在ひきこもり状態に無い元ひきこもりである私にとっての現在のテーマでもあるし、誰にとってもテーマとなりうるだろう。更に言えば、ニーチェが神の死んだ現代で世界に問うた「実存」に関わるテーマでもある。
「ひきこもり」の持つ疑問が「ひきこもり経験者」だけでなく人間にとって普遍的な問いである事を認識する事がひきこもりに対する理解のだ一歩になるのかもしれない。
先日読んだ斎藤環の『社会的ひきこもり―終わらない思春期』が「社会的ひきこもり」を「六ヶ月以上を自宅にひきこもっていて且つ全く社会との繋がりを持てていない者」と定義して、家族以外の誰かと親密な関係を持つ事が出来るようになる事で治癒としていた。
しかしこの本ではその斎藤環の定義を踏襲した上で
仲間とバカ話や飲み会ができるのは大きな進歩ではある。でも、実は引きこもり問題の最大のハードルは「そこから」にあるのです。つまり、「親密な仲間ができた」状態から、「独立した経済生活」のハードルが、実は一番高い。
とかなりリアルな見解と実態に沿った目標設定をし、彼自身が行っているひきこもりを現代思想とかで論じられているような問題とか考え方の構図でとらえることについては、「そのほうが、苦痛除去に効果的だと思うから」と述べている事にとても好感を覚えた。
この本の前半にも共通する事かもしれないけど、彼は自らの経験を人前で話すことを切っ掛けに「脱ひきこもり」の機会をつかんだ。彼の「ひきこもり行為」そのものが彼が「ひきこもり状態」から脱する原因となったのが皮肉といえば皮肉かもしれないが、彼がひきこもり当事者としてこういった本を出版し、あちらこちらで講演し始めたりするようになったこの本の出版当時、彼はこういった活動の中に自らの社会的存在意義と価値を見出して社会と関わりを持ち始めた。
しかし、この本の中で彼は、依然として彼の両親は彼のこういった活動を「脱ひきこもり」とみなさず、彼にちゃんとした会社に就職するように勧めたり、求人広告の切抜きを渡したりするという事を書いている。
これは私にとってかなり衝撃的な内容であったし、これが彼にとってどれだけの苦しみと痛みになるのかがよく理解できる。しかし一方で、両親のそんな行為を軽く受け流す事が出来るようになっている事に彼の「脱ひきこもり」の真意を見たような気もした。
ひきこもりが自らを否定することなくひきこもりを脱するのは、自らが取り囲まれ自らに押し付けられる様々な価値や論理や倫理を確かにそれが有用で意義のある事を認めつつも、岸辺露伴のように「だが断る」と発語することではないか。
この岸辺露伴が最も好きな事のひとつは
自分で強いと思ってるやつに「NO」と断ってやる事だ…

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Comment & Trackback

このエントリー良いですね。
僕にも大いに共通する所があるので、著者の、そして土偶さんの感じる気持ちは僕も感じています。
もうちょっと頭が働くようになってきたら、僕もブログを再び書いてみようと思います。

ありがとうごぜますです!分っていただけましたか!
私もこのエントリはかなり気合入れて書いて、また、書くことで色々勉強になった(自分で言うのもおかしいが…)ものなので、とても嬉しいであります。
私もKarapo2008さんの文章ぜひ読みたいであります。ブログ書き始めたら(こっそり)教えてください。

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