勝手に元気付けられる

昨日、うつ的なものでずっと療養していた友人から電話があり久しぶりに喋った。
そして今日も結構長い時間喋ったが、話そうとか聞こうとか思っていたことのあらかたを完全に忘れていたのを家に帰ってから思い出した。
でもまぁ、本当に久しぶりに話したので、話の内容というよりは話すこと自体に意義があった。
人が癒えてゆく時のエネルギーというのは、その周りの人にも影響を及ぼすのだと思う。
少なくとも療養中ではなかったはずの私のほうが元気付けられたような気がするのは不思議なものだ。
結局、「モノ」ではない「事」は人のつながりの中にしか生まれないのだと思う。
なんだか最近全くブログを書く気がしなかったのだが、彼と話して妙に書きたくなってきた。
そういえば彼と話して元気付けられたのと同じようなことがずっと昔にあったのを思い出したのでその事について書いてみる。


ずっとずっと昔、甘ロリ(というらしい)な服をバリバリ着こなして日常生活をおくっていた(らしい)知人がいた。
今でこそロリータファッションはそれほど珍しくないけど、当時はとても珍しくやたらと目立っていた。
彼女が雑踏の中でくっきり目立ちながら、周囲からの奇異な視線の中をまるで無人の野原を行くごとく遠くを見つめるような目で歩く姿はとても偉大に見えたものだ。
私は当時彼女と同じ集団に属していたので、彼女と話す機会は多々あった。
私は彼女に対して好感を抱いていたので色々と話しかけてみた見たものの、彼女は私にほとんど打ち解けてくれなかったと記憶している。
彼女は奇異な服を着る人にありがちな、浮ついて変わっていれば良いというような雰囲気とは全く違う、なんというか、生き死にのレベルでその服を選択しているといったような、真面目で真剣でどこか思いつめたような雰囲気を持っていたように思う。
あまり話していないので勝手な想像だが少なくとも私にはそういう風に感じられたのだ。
そして、しばらくすると彼女の姿を全く見なくなった。なんでもうつ病だか神経症だかで休養して治療しているらしいという噂をどこからか聞いた。
そして、何年かの後、そんな彼女のことなど殆ど忘れていた頃にたまたま彼女の姿を見かけた。
向こうから歩いてくるのを見て、「あ、どこかで見たことのある人だ」と思い、すれ違ってしまっても思い出せず、しばらく経ってからようやく思い出した。
彼女はとても地味な服を着ていた。地味というよりは装飾性を排除して実用性をのみを考えて適当に作られたようなタイプの服装をしていた。
パステルカラーでフリルだらけの服を着ていた彼女とのあまりのギャップで思い出せなかったのだ。
そしてそれからというもの、地味な姿で周りより少し暗い所に同化して見える彼女を時々見かけるようになった。
見るたびに「(回復してきて)良かったな~」と思いつつも、それでも結局治るということはそういう選択肢を選ぶことになるのか。
何らかの突出した個性は病やウィークポイントとしてリンクされるのか、全ての山と谷はならされて平地になるべきだとされるのかと、ちょっと複雑な気持ちを感じていたものだ。
そしてそんな彼女に違和感を感じなくなった更に数ヶ月後、照りつける太陽の下、白とピンクのチェックと過剰なフリルで構成された服を着て、これも過剰なフリルのついたピンクの日傘をかざして悠然と歩く彼女を見た。
はじめてその姿を見た時は似ている人かと思ったがそうではなく、ほんの数ヶ月前までの地味さとは全く正反対であるのはもちろん、以前の服装よりもはるかに気合が入っているというかより徹底されているように見えた。
以前同様の奇異の視線の中をゆっくり歩く、そんじょそこらのゴスロリとも甘ロリとも違う、修羅場をくぐってきたその姿にはなんというか圧倒的な風格すら感じた。
なんというか幼虫→蛹→成虫の図式を思い浮かべすらしたのであった。
日差しの中の彼女はエネルギーを放っているように見えた。回復し復活するどころか更に強大になったそんな彼女を見て、何だか勝手にとても力づけられたのであった。
ということがあったのを思い出した。

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