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2010年7月19日

村上春樹『1Q84 book3』/物語というよりメッセージ/色々な意味で肥やし

 先日、村上春樹の『1Q84 book3』を読み終えた。
一気に一日で読んでしまうのではなく、ちょっともたついて読み終わるのに二日かかったのは、Book1とBook2の内容を殆ど忘れていたので回収されつつある伏線やら人やらを思い出したり調べたりするのに時間がかかったせいである。
(BOOK1、BOOK2の感想はこちら)
このBOOK3は本来書かれる予定はなかったけど世に出たという位置づけらしく、それなりの完結を見たBOOK2の後日談的なエピソードと、それに加えるような形で牛河の章が入っている構成である。
Book1、Book2同様に冗長な印象を受けたが、3人の物語が入れ替わりながらストーリーが進むせいか、読むのを止めてしまうほどの中だるみはなく、それなりにさくさく読み進められるところはやはり素晴らしい。
青豆、天吾、そしてこのBOOK3から牛河の物語が入れ替わりつつ物語られるのだが、、青豆の最初から最後までマンションの一室にひたすら隠れてひきこもって外を監視しているだけの話を三つある物語の中の一つの大筋にしてしまうのは、やはり村上春樹の小説家としての恐ろしい筆力というしかないだろうと思う。


村上春樹は
「作家の役割とは、原理主義やある種の神話性に対抗する物語を立ち上げていくことだと考えている。「物語」は残る。」
インタビューで述べていた。
これは昔読んだ『村上春樹、河合隼雄に会いにいく 』のテーマの一つそのままではないか。
村上春樹がこういうことを自分の物語に関連付ける形で言ったのにとても驚いたのであるが、それでも私にとってこの『1Q84』は「物語」としてはあまり心に残っていない。
というよりも、どうしても私の中で『風の歌を聴け』から『羊をめぐる冒険』へと続く三部作と『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と比べてしまうということもあるのだが、
結局この1Q84が村上春樹のほかの小説と比べて気に食わないのは、BOOK1、BOOK2の感想でも書いたように登場人物の個性と魅力を感じられないからだ。
牛河はこの『1Q84』で殆ど唯一個性的で魅力的なキャラクターではあったけど所詮は脇役に過ぎなかったし、青豆や天吾は最後まで全く無個性に見えた。
羊シリーズは鼠から羊男、そして「僕」や区別がつかない双子にさえ強烈な「無個性という個性」があったし、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の登場人物は敵味方脇役に至るまで素晴らしい。
そして、過去に何度も書いているように、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』でのやみくろの潜む地下で「ピンクの歌」を歌う、個人的に文学史上最高のものの一つであると思う素晴らしく美しいシーンに匹敵するものは全くない。
物語性という意味ではこの『1Q84』は以前の彼の作品に比べていまいちであるけど、しかし、この本ほど村上春樹のアフォリズム的にテーマに沿った彼の考えを直接的に述べている本はないと思う。村上春樹のメッセージのようなものがこの本ほど直接的に表現されていた本は無かったように思う。
book1book2含めたこの『1Q84』という本は、物語性よりも直接的なメッセージ性のようなものをとても強く感じた。
例えばこのBOOK3では、
「再生についてのいちばんの問題はね」と小柄な看護婦は秘密を打ち明けるように言った。「人は自分のためには再生できないということなの。他の誰かのためにしかできない」(P184)
そしてそれに対応するような形で牛河については
「ソーニャに出会えなかったラスコーリニコフのようなものだ」(P200)
と述べている。
天吾と青豆にはあるけど、牛河には根本的に欠けているものがはっきりとした言葉で示されており、これはもうこの『1Q84』の全体を貫きとおすテーマの一つである、分かりやすすぎるほどの「ラブ&ピース」の思想ではないか。
とはいっても、村上春樹の物語に父親が本筋に関わる人物として登場するのは多分初めだということもあり、私は主人公と父親の関係がどう着地するのかに結構期待していたのだが、対話ではなく一方的に言いたい事を言っただけで終わっていたようにしか見えないのが期待はずれであった。
この物語の中の父親との関係については「言いたい事を言う」のが何かしらの最終段階のように扱われていたように見えたのだが、個人的には「言いたい事を言う」というのは何かに向かっての一番初めのステップに過ぎないと思うのでそのあたりはちょっと拍子抜けである。
村上春樹は1990年代後半よりずっと『カラマーゾフの兄弟』に代表されるような「総合小説を書きたい」と言っているが、最近のインタビューで
「僕が個人的に偉大と考える作家を一人だけ選べと言われたら、ドストエフスキー」
「『カラマーゾフの兄弟』や『悪霊』が僕にとって意味するのは、小説としての骨格の大きさ。これはもう別格ですね」
「ドストエフスキーはだんだんすごくなっていった。モーツァルトやシューベルトのような天才肌というよりは、ベートーベン的というか、苦労しながらたたき上げて、積み上げて、最後に神殿みたいな構築物を作り上げた」

と述べている。ノーベル文学賞候補の小説家としての村上春樹は明らかにここを目指しているのだろう。
『1Q84』のリアリズム的な三人称だけでなく、このBOOK3での青豆と天吾と牛河のニアミスのシーンの三つの物語をまたがった超越的な客観視点での記述に驚いた人は多いようであるが、こういった今までの村上春樹に無かった手法が新しい本が出るたびに使われているのがとても印象深い。
ドストエフスキーが『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』、そして最後の『カラマーゾフの兄弟』とどんどん書く毎に毛色を変えながらスケールアップして行ったように、村上春樹はこの『1Q84』をそういったステップの一端と位置づけているのだろう。
この『1Q84』が社会現象のごとくにこれほどまでに売れ、村上春樹が上の「物語性」の話を色々なインタビューで繰り返し持ち出すことで、文学や小説といった物語の持ちうる意味や力の一端が、純粋な小説好きではない人々にまである程度認知されたのはとても意味深いと思う。
そしてこの『1Q84』は総合的に「物語性の意義についてのメッセージ」を社会現象として行き渡らせたということになるのではないだろうか?
村上春樹自身が自分自身をメッセージを発信するのではなく「物語」を作る小説家と捉えているのだとしたら、この「メッセージ性」は強いけど「物語性」の弱い『1Q84』は、「物語の意義を発信」して次の「物語」のつなぎというか肥やしというか土壌を作ったということになる。
ということは、次は本当の「物語」が来るということなのか??
『1Q84』の青豆や天吾には殆ど興味がわかないので、「BOOK0」や「BOOK4」が出るなら牛河の物語が読みたい。
まぁ、昔からの村上春樹好きにとっては、どうせ次が出ても読まずにはおれないのだろうが、次回作にとても期待である。(と毎回言っているような気がする…)
そういえば、出版当事にやたらと物語を深読みするための手がかりとして物語中に出てくるヤナーチェク「シンフォニエッタ」だの、物語の下敷きにされているはずのジョージ・オーウェル『1984』だのが売れたり注目されたという話であるが、結局、これらは物語にどういう関係があったのだろうか?
このような村上春樹の作品の中で登場人物が読んだり聴いたりする本や音楽でちょっとした意味を持たせようとする手法は、なんというか小説がその小説内世界で完結していないようで基本的にはあまり好きではない。
人によってはこの手法が鼻について読むのも嫌だという人がいる。
このBOOK3で青豆がマンションに隠れてひきこもりながらひたすら20世紀を代表する小説でかつ徹底的なスノビズム小説である『失われた時を求めて』を読んでいたが…これちょっとあざとすぎるように思えて、村上春樹好きとしてはちょっとした不安を覚えたのであった。

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