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2010年10月15日

愛ゆえに!!「八正道サウザー」は如何でしょう?

色々な事情で言葉に出来ない、或いは人に言えない苦しみを解決したいという欲求が、往々にして内部に向かって自らを責める事になるのは、その苦しみ自体が言語化への要請のサインを発していると捉えると楽になるのではないだろうか。
抱えている苦しみや問題の言語化そのものが、それらの解決への試みの一つの手段であることは言うまでもないことなのだろうが、
それらが解決されないままに、ただ言葉にするだけで何かしら解消されたように感じるのは不思議と言えば不思議である。
そして、その言語化されるだけでとたんに楽になるような問題や苦しみの多くは、もう自分の手に負えない、自分の手を離れたレベルの位置にあるものであることが多いのが可笑しい。
それは解消というよりは定位というべきかもしれないけど、
その問題や苦しみが私にとってどういうものであるかという事を確認すれば、なにかしらの落ち着きのようなものを感じるのだろう。
どうにもならないことでも、とりあえず棚上げと思えるだけでずいぶんと楽になるのではないだろうか。
そして、棚上げしておいたはずのものは、あれだけ深刻な問題だったはずなのに気付いた時にはもうすっかり問題でなくなっていることも多いような気がする。


笠原嘉が統合失調症や他の精神病や神経症で毎日死にたくてしょうがないという人に対して、「30歳を超えるとなぜか楽になる」「何とか30歳まで生きてはもらえまいか」という意味の事をしきりに言っていたのがとても印象に残っている。
たしかに、ある種の悩みや違和感のようなものは30才を越えた時点でなぜか楽になったような気がする。
問題そのものが解決されるというよりも、何かしらの時間の経過や経験によって自分自身が変性し、かつて問題だったものを問題と捉えなくなるようになることは意外に多いような気がする。
そして、振り返ってみれば、その問題やら苦しみそのものが自分を構成しているものの一つだと気づくのである。それは貝が殻の中の異物を真珠にしてしまうように、ちょっとした輝きを持って見えて来ることすらあるのである。
なんというかそれは、ちょっとした修行のようなものである。
いやむしろ修行というものは本来そういうものではないかとも思う。積極的に問題そのものと対峙して解決するのではなく、問題と問題のままに付き合いながらいつの間にか問題そのものを自らに取り込んでいる。というような。
某聖帝のように
「愛ゆえに人は苦しまねばならぬ!!愛ゆえに人は悲しまねばならぬ!!愛ゆえに・・・」
「こんなに苦しいのならば!悲しいのならば!愛などいらぬ!!」

などと問題解決を放棄してしまわずに、
その問題をそっと棚上げした状態で「退かぬ!! 媚びぬ!! 省みぬ!!」と問題を棚上げしつつも、淡々と日常生活を過ごす事を志向する、ある意味で二回裏返ってまっすぐに見える「八正道サウザー」は如何でしょう?

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