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2011年4月1日

ル・クレジオ『調書』/統合失調症仮想体験小説

2008年に村上春樹に競り勝つ形でノーベル文学賞を受賞したル・クレジオの『調書』をやっと読むことができた。
この『調書』は1963年に彼のデビュー作として発表され、当時、サルトルの『嘔吐』と同じような位置づけで語られたこの本と著者はちょっとした話題になったようで、日本語訳も1966年に出たのだが、長らく絶版していたようである。
2008年に彼がノーベル賞を取ったのを機に読もうと思ったのだがどこにもなく、諦めて替わりに『歌の祭り』読んだのだが、最近ふと図書館の本棚にこの復刊された『調書』を見つけて読むことができた。
ストーリーは、というか、ストーリーらしいストーリーなんかまったくないのだが、軍隊か精神病院かなんかそういったところから逃げ出したというアダム・ポロという青年が、空き家になっている廃屋に勝手に住み着きながら、恋人のような女性に手紙を書いたり、その女性と会ったり、あたりをぶらぶらしたり、日向ぼっこしたり、部屋に出たねずみを殺したり、野良犬のあとをつけたり、動物園のライオンと自己同一化したり、溺死者が発見される騒ぎに遭遇したり、街頭で演説し、そして…


とそんな感じの日常のようなものが語られるのだが、その語り口が一般的な小説にあるような時系列に沿って人物事でストーリーを追ったような語り口ではなく、頭に浮かんだ想念や感覚がそのまま断片的な単語や音の組み合わせのまま羅列してあるような文体である。
とはいえ、その文章を構成している単語や想念が自らの感情や感覚を表すような類のものであれば、ただぼんやりとした感覚的なものとして感覚として共感的に理解できるのであろうが、ぱっと読んだ感じでは、文の脈絡がほとんどないように見えても、妙に知的に研ぎ澄まされた論理構成を持っているような印象を受けてしまうので、ついついちゃんとその文章の意味を読み取ろうとしながら読んでしまい、結果意味が追いきれずに苦労し、結局何を言っているのかよくわからないままになるのだ。
こういう言い方をすると語弊があるかもしれないが、同じわけの訳のわからないことを言っているのでも、スピリチュアル系だとか、宗教的奇人系だとか、オーラー系といったようなタイプの最初から最後までの訳のわからない胡散臭さではなく、妙に知的方面に傾倒してしまった統合失調症の人の頭の中の思考と意識の流れをそのまま覗いているような印象を受ける。
はっきりいって、意味のよくわからない文章を読み続けるのは苦痛で退屈でしかないのだが、しかし、意味がわからないながらも、ところどころに妙に光って目を射るような言葉がちりばめられておりハッとしたりギョッとしたりさせられる、このおかげでこの本を途中で投げ出さずにすべて読み終えることができた。
とはいっても、すべて読み通すのに2ヶ月以上かかったのだが…
しばらくこういった読み方でこういった文章を読み続けていると、不思議と文の持つ分裂的で統合失調的な部分そのものと一体になってくるような感覚がしてくる。
これは文章の意味を理解しながら読み進むのじゃなくて、ただただ単語と音と文章を頭の中に通過させるだけのような読み方でしか読めない。
この本を鑑賞するには、「考えようとするな、感じろ。」とか「理解しようとするな、一体になれ。」とか言ったような「ジェダイの騎士かよ!」的な素養が要求されるような気がする。
そして、この『調書』の主人公アダム・ポロなる男が神経や脳が外界にそのまま晒されているかのような過敏な感受性を持っているがゆえに、その神経や脳がただ生きているだけで周りのあらゆることの全てから過剰すぎる情報を受け取ってしまい、それらすべてを処理して意味をつけようとして処理しきれずにオーバーフローして、結果として処理途中の統合が失調した言葉があふれてくるように見えたのであった。
なんというか知識としてよく聞くような統合失調症のパターンそのままではないか。
実は、この本は、統合失調症仮想体験としてもとてもリアルなのではないだろうか?
私が良い小説だとか素晴らしい小説だと思うのは、ずっと印象に残って忘れられないようなシーンを持っていたり、自分の中に本の中と同じような感覚的な雰囲気や印象を残してゆくものである。
たとえば、読んだ時は面白いと思っても後になって何も残っていないようなものよりも、逆に読んだ時はあまり面白くなかったけど、ずっと妙に雰囲気や印象が心の中に残っていたりするものの方が良い小説だと思うのである。
そういう意味で、この『調書』は読むのは苦痛だったし、読んでても訳がわからんし、もうノルマやと思って最後まで読み終わっても「なんじゃそれ?」だったのだが、今考えてみれば本の中のアダム・ポロの感覚や日常の印象が妙に心の中に焼き付いており、かなり深い印象を与えられている事に今更ながら気づいた。
これはもう別のクレジオの本も読まんとあかんやんかーとということで、『調書』の次の『発熱』を探そうとしたのだが、これも絶版やんけー

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Comment & Trackback

すごくいい解説でした。
共感。わかりやすい!
ジェダイとか、おもしろいこと言いますねー!

お返事遅くなりました。
お褒めいただきありがとうございますです。
こういったいただきますと書いた甲斐があります。
またいろいろ本を読んで感想書いてゆきますのでまたお待ちしておりますです。

1968年大学1年のときに読みました。当時はサルトル、マルクスの全盛時代で、その後の時代を模索してフランスのアンチロマンや雑誌『ユリイカ』・『現代詩手帖』などを彷徨したものです。アンチロマンはナタリーサロートやアラン・ロブグリエなど。難解でした。いまあらためて見るとル・クレジオは同時代の潮流とは一線を隔していたのでしょうか。当時のわたしにはわかりませんでした。つい最近「ディエゴとフリーダ」を読んでみてル・クレジオの関心がアンチロマンにはなかったことがわかりました。

先日サルトルの『嘔吐』を読み返し始めてあまりにも読みづらく途中で読むのを止めたのですがww確かにこの『調書』はサルトルの書く小説とよく似たような記述方式?文体?でした。
この時代の「反小説」なるヌーヴォー・ロマンとしてのアンチロマン小説が今となってはまったく生き残っていないのにも関わらず、クレジオが現代の作家として評価されているわけですから、彼の最近の作品もちょっと読んでみるべきやなぁ。と思っております。

バツクイン、ミージックTBS月曜日北山修さん、ある女子高生の手紙、ル、クレジオ調書暇だったら読んで下さい、火傷しそうなくらいドキドキしちゃつた。もうひとつ別の広場に収録、数多くの批評家が言葉を失いました。

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