ヴィクトール・E・フランクル 『それでも人生にイエスと言う』/フランクルの奇妙な冒険 《「だが断る」は砕けない》

amazon ASIN-4393363604『夜と霧』の新旧版を読んでからフランクルなる人物とその著作や考え方にとても興味が出てきたので、彼の本を手当たり次第に買って読んでいるのだが、とりあえず『それでも人生にイエスと言う』の感想を。
この『それでも人生にイエスと言う』は春秋社の「フランクル・コレクション」なるものの中の一冊で、フランクルが強制収容所から解放された次の年の1946年にウィーンの市民大学で連続して行った3つの講演の翻訳である。
それぞれの講演は「生きる意味と価値」「病を超えて」「人生にイエスという」として本の中でそれぞれ一章となっている。
一般的に、フランクルは収容所に入れられて強烈な体験をすることで『夜と霧』の中で述べられていたような考えに至ったように思われるが、
精神科医であった彼は収容所に入る以前からそのベースとなる考え方とその考え方に基づいたロゴセラピーなる手法を提唱しており、収容所での経験は彼の考え方と手法の正しさを証明するものであったようである。
『夜と霧』は1956年に出版されたので、この講演はそれに先立つこと10年前の彼の考えということになるが、
この本を読むと、この本の内容が『夜と霧』の10年前の内容でありながら、『夜と霧』の中で述べられている事ととてもよく似ているだけでなく、むしろ『夜と霧』で述べられている事のエッセンスを講演という形で一般向きに分かりやすく解説しているものであるようにすら思える。
そういう意味で、この本の帯にある「フランクルを知る最適な入門書」というこの本に対する説明はとても上手い説明であるように思える。


この本のタイトルであり、この本のもっとも主要なテーマでもある「それでも人生にイエスと言う」ということの出来る根本的な根拠は、
突き詰めれば彼の言う「自分が人生に何を期待しているのか」を問うのではなく、個々の人間が人生の瞬間瞬間で問われている「人生は私になにを期待しているか」に答え続けるためである。
というところであろう。
おそらく、これを否定できる人は誰もいないだろうし、誰でもどんな人でも頭では理解できる。
しかし、こういったことを無意識のうちに当たり前の事として体感的に確信している人にとって、またそれを実際的な自分の問題として捉えている人にとって、それはコペルニクス的転回でも価値転換でもなく、自分自身の中にある感覚やなにものかが言語化されているだけに過ぎない。
何かしらの自分の未来に対する選択肢や方向性を可能的現実として一つでも持っている人や特に真剣に自殺を考えたことがない人にとって、この本はただの「感動的な本」であるに過ぎないだろうと思う。
精神科医であった彼にとって、アウシュビッツで友人を励まし続けた彼にとって、彼の考え方と彼の方法論は死のギリギリのラインを今にも踏み外しそうになりながら歩いている人のためのものであった。
まさにこれは平穏無事に生きている人に感動を与えるためのものではなく、「生き残るため」の考え方であり方法論であった。
問題は「人生は私になにを期待しているか」と問い続けることが「それでも人生にイエスと言う」という根拠になりうる事を理解できても、いざ実際に自分に当てはめて考えると「人生はたぶん俺に何も期待していないだろう」と結論を出さざるを得ない人、あるいはもっと思いつめて「人生は私に人生を終わらせることを期待している」と確信してしまう人であろうと思う。
一時的に「自分が人生に何を期待しているのか」から「人生は私になにを期待しているか」の価値転換によって浮かび上がったものの、人生が私に何も期待していないだろう、誰も私に何も求めていないだろうと確信してしまった人にとって、それの価値転換が激しければ激しいほど強ければ強いほど、より強くその人を崖っぷちに追い詰め、奈落の底をより深くするだけのものとなることもありえるように思える。
「それでも人生にイエスと言う」の原題は「Trotzdem Ja zum Leben sagen」であり、
「それでも」と訳されている「Trotzdem」は辞書でひけば「それにもかかわらず」、
「人生」と訳されている「Leben」は「生」あるいは「生きる事」とも訳せる。
「それでも人生にイエスと言う」を「それにもかかわらず生きることにイエスと言う」と書くとより切羽詰ったように感じる。
ただ無条件的に「人生にイエスと言う」のではなく、
この本の中にあるように「困窮と死にもかかわらず、身体的心理的な病の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしてもー人生にイエスと言うことができるのです。」ということになるのだが、
「それでも」やっぱり「それにもかかわらず」生きる事にイエスと言う事の出来ない人は沢山いるだろう。
考えてみれば、今まで人生に対してイエスと言う習慣のない人が、突然「イエス」というのはとても難しい。
そもそも「イエスと言う」事自体がどういうことが良く分からないはずである。
そして最も切羽詰って追い詰められている人にとって「生きる事にイエスと言う」ということは、「自殺に対してノーと言う」とほとんど同義になるだろう。
そういった人たちにとっての「それでも人生にイエスと言う」なる言葉は、
たとえ自分が誰からも何からも求めいられなくても、
たとえ人生が私に対して何も求めていなくても、
たとえ人生が私に人生を終わらせることを期待しているとしても、
たとえ速やかに命を絶つことが一番正しいことだとしても、
たとえ自殺すれば直ぐに苦しみが消えるとしても、
だが断る
と言い換えることが出来るのではないだろうか。
「それでも人生にイエスと言う」、言い換えれば、
生きることそのものが自分自身に語りかけてくる自殺の誘惑と妥当性に対して、自分の命を懸けて「だが断る」と言い続けるということは、
追い詰めに追い詰められた状況での敵の脅しと甘い言葉に対して岸部露伴が言い放ったこの言葉がそうであったように、
自分の命を懸けて自分の信念を貫く意思表明でありるだけでなく「逆転フラグ」を呼び込む言葉ともなりうるかもしれない。

2件のコメント

  • 確かに何かにはっきりイエスということが、逆の何かにノーと言う行為でもある以上、
    フランクルの本の中にある言葉は、ある程度持ち直した人、最初から境界の向こう側にいる人には効果的でも、
    本当にどん底にある人に届くのだろうか?と言う気はします。
    仰るとおり、来ない解放軍を待って絶望して死んでしまったユダヤ人は他人事とは思えなかったです(w
    フランクルが収容所で自殺しなかったのは彼の信念であっても、
    彼が生き残ったこと自体は「運」やと自分で言ってることもありますし、
    そういう意味で、彼の本を読むことは、
    ある一線を越えてしまえば考えれば考えるだけ自分を追い詰める事にしかならないんだということが、
    逆説的に良く分かるような気がします。

  • このエントリーにはコメントせざるを得ないですな。
    フランクルについては土偶さんの感じられた思いと重なります。
    それでも人生にイエスと言う。と言うことは、人生にノーと行ってる人間を真っ向から否定していると言うこと。
    夜と霧は、新訳、旧訳ともに読みましたし持っています。
    詳細は忘れてしまいましたが、春の終わりに解放軍が助けに来ると言う妄想を信じて、結局その日が来ても何も起こらずに絶望して死んでしまったあるユダヤ人のことが一番印象に残っています。
    フランクルの強靱さに比して、自分はこの解放軍の妄想に囚われて死んでしまった一ユダヤ人とそう違いはないと。
    おそらくフランクル自身は自覚していなかったのでしょうが、彼には上記を逸したが備わっています。
    その得意希な独自の身体性の自覚がすっぽり抜け落ちている彼の文章を読んでも、ふーん、あんたは凄いねぇとしか思えませんでした。
    結局、境界に居る人間にとって、その一線が全てを分け隔てる線というわけです。
    長々と書きましたが、フランクルと僕は、やっぱりあっち側とこっち側に分け隔てられていると言うことなんですな。

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