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2006年7月25日

アンチantinomyのみ

最近「アゴタ・クリストフ」と「パウロ・コエーリョ」なる二人を続けざまに読んだ訳やけど、この二人の人生とか世界に対する見方とか考え方は正反対と言っていいほど異なっている。
アゴタ・クリストフは人生は苦しみでしかなく、世界には醜い物以外に何もない。と確信する一方、パウロ・コエーリョは周りをちゃんと見渡せば世界は美しく楽しく、人生は楽しむためにある。そういった要素など周りにいくらでもある。
と言うような事を言っている。
しかし、考えてみれば不思議な事やけど、
読んでみればどちらもそれなりに感動もして納得もし、どちらにも親近感と同調を覚える。


どちらもそれなりに正しく、どちらもそれなりにずれていると思うし、どちらかが正しければもう一方が間違っている。という単純なものではないのだろう。
それでも、全く違う物を同時に理解しようとして、同時に受け入れようとして、同時に然りとしようとするとやっぱり多少混乱する。
「止揚」などと簡単に乱暴に言ってしまえばどこかに収まったりしそうな気もするけど、もし実際にこの二人が、もしアゴタ・クリストフとパウロ・コエーリョが人生について愛について世界について語り合うことがあったとして、最終的にどこかにたどり着けるとはとても思えない。
真実は一つではないと言ってみたところで、自分の持っているものが真実のうちの一つなのか、間違いのうちの一つなのかを見分ける事は非常に難しい。
何かが真実であったところで、何かが間違いであったところで、その二つの間に大した違いなど実は無いのかもしれない。
それが真実であろうが間違いであろうが、ほにゃららはほにゃららである。と心から強く思った事自体の方がはるかに大事なのでないか?などと思った。
書いてから思ったが、このタイトルはちょっとふざけすぎた。
ついカッとしてやってしまった。今は反省している。

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