『国境の南、太陽の西』村上春樹

いきなり初めての投稿が本の感想(書評とは言わない)というのも何やけど、まぁ読んだもんはしょうがない。
思うところあって村上春樹の中期以降、つまりは「ダンス・ダンス・ダンス」以降の作品をもう一度読み直すことに決めた。幸い本はすべて手元にあるし、正月休みも大量にあるのでこれを生かさない手はない。まず最初は『ダンス・ダンス・ダンス』の四年後、1992年に発表された『国境の南、太陽の西』だ。
当時この本は「村上春樹」ブランドの勢いで大ベストセラーとなったわりに、そこらじゅうでボコボコに酷評されてた印象がある。今となってはあまりに古すぎる本やけど読んだものはしょうがない。この本について書いてみる。


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たしか某○○ジナ氏はこの本が村上春樹の中で一番気に入っている。といっていた記憶がある。その某カテ○○氏がどのへんを気に入ってのかはよく知らんけど、とにかく、最初にこれを読んで酷くがっかりした記憶がある。予想されたことではあったけど鼠も羊男も双子の女の子も出てこなかったし、登場人物は俺の知らないキャラクターばかりだった。それになにより、村上春樹自身がこの本について「あの封筒がなくなるようにしたのはまずかった」というようなことをどこかの雑誌のインタビュー記事に載せて「言い訳」をしていた事を聞いた事が一番大きかった。「書いた本人があかん言うてる本がええ訳ないやんか。」と。実際読んでみてもセンチメンタルなただの不倫話やし、呼んでて恥ずかしくなるようなセリフが飛び交ってるし…
アマゾンの書評でこの作品について「10年以上経って,読み返してみると,印象は全く異なっていました。」と書いている人がいたけど、俺も十年ぶりに読み返してみてやっぱりまったく印象は違って見えた。
まず、一般的に恋愛小説と呼ばれるものを読んでも、主人公に感情移入して読んだり、「恋愛小説」として読むことはほとんどなくなったということがある。
さすがにこの年になれば恋愛とか性欲というものが自分でも制御できない恐ろしいエネルギーで自分や自分の周りのものをいやおうなく押し流してゆくということを知っている。つまりはそれに押し流されることで、現実的に社会的にいろいろなリスクを背負い込んでしまうということだ。だからおっさんおばはんの領域に差し掛かった人間は無茶な恋愛をしなくなるし、決まった人がいればその人と細々と付き合ってゆくような方向を選ぶようになる。それが良い事か悪いことかは別にして。
これは俺が年を取ってそういうことから遠ざかるようになったからかもしれないけど、この間ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読んだ時に感じたような「これのどのへんが恋愛小説なん?」という感覚をこの本に抱いた。恋愛の面よりもただ怖さだけが先に立った。俺がこんなんなったら怖いなーと。
次に、その「恋愛小説」の「着ぐるみ」なしでこの小説を読んでみると村上春樹が驚くほどストレートに特定のテーマについて語っていることに驚いた。それも何度も繰り返してだ。それは一言で言うと「悪意のない行動が結果として誰かを酷く傷つけてしまうことがある」ということだ。イズミとの関係が島本さんを傷つけ、イズミの従姉との関係がイズミを傷つけ、島本さんとの関係が有紀子を傷つけたようにだ。それは特に恋愛の場合に限ってではなく日常生活のあらゆる場に潜んでいる可能性といって良いと思う。
そのことに対して村上春樹はなにか方策を示しているわけではないし、それが解消されるとも言っていない。もちろんそれが良い事であるとも言っていない。ただそうあることを理解して、変わろうと努力する以外にないと言っているように読み取れた。ただひとつのことについてひたすら具体例を示しているかのように見えた。
一個の小説としてみれば、これは間違いなく「駄作」であると思う。誰かほかの小説家のデビュー作がこれなら俺は一生その小説家の文章を読もうとしないだろう。村上春樹が特に好きではない人間はこの本を読む必要はまったくないと思う。むしろ読まないほうが良いと思う。ほかによい本はいくらでもあるし、この著作が村上春樹の多くを表しているとは思えないからだ。
村上春樹はこの次の長編『ねじまき鳥クロニクル』の執筆の合間にこの著作を書き上げたという。今までのスタイルはなりを潜め、主人公のキャラクターはまったく今までと異なっている。今まで決して触れられる事のなかった子供時代のことについても深く言及されている。それに何よりこの作品は比喩やウィットで読者を煙に巻くことなく、あまりにもベタベタな小説手法で直球勝負をしている。そしてそのことは今までにないあまりに明確な「わかりやすさ」を読むものに印象付ける。
これは村上春樹自身がこの小説の主人公に明言させているように小説家としても「変わろうと努力する」ことの表れではないだろうか。事実この小説のあたりからデタッチメントからコミットメントへと興味が移行したと村上春樹自身も『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(1996年)で語っている。
村上春樹を特に好きではない人間にとって確かにこの本は価値がないだろう。それでも村上春樹の考える事、村上春樹が文章を書くことで目指すものに共感できる者にとってこの作品は、彼の作品群の中で転換的な意味を持つ作品として、彼の新しい方向を示す作品として、彼の作品群を理解するのに意味のある一冊となるのではないだろうか。少なくも俺はそう感じた。
ん、まぁ、結局褒めてないわな…

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