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2014年6月10日

佐々木中『切りとれ、あの祈る手を -〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』/ラーメンはアレやし蕎麦にしとくわー革命

『切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』を読んだ。

著者は1973年生まれの哲学者、佐々木中氏であるが、
以前読んだ『思想としての3・11 』に載っていた彼の文章に心を動かされて彼のほかの文章を読んでみたくなったのだった。

色々調べてみた結果、最初は彼の処女作である『夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル』を読もうと思ったのだが、
実物を見てその本の辞書のような分厚さとそのとテーマに尻込みしてしまい、では二番目の著書を...ということで選んだのがこの本である。

この本はタイトル、ではなくサブタイトルの「〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話」のとおり、〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの章で構成されていて、彼はこの本の中で「文学」こそ、つまり、本を読みテキストを読み込み、解釈し語り、そして書き換えてゆくことこそが「革命」だと語っている。

第2夜「ルター、文学者ゆえに革命家」で、カトリック教会から異端として破門されたマルティン・ルターが、聖書をひたすら読み込み、民衆に読めるようにドイツ語訳し、自身も大量の本を出したことは、ドイツで爆発的な出版物の増加を促して、宗教を改革しただけでなく、今まで聖職者層に独占されていた知を民衆に開いた圧倒的な革命であったと語り、
第3話「読め、母なる文盲の孤児よ ― ムハンマドとハディージャの革命」では、文盲でごく普通の常識人のオッサンでしかなかったムハンマドが妻ハディージャのバックアップで大天使ジブリールから強いられた神の啓示を「誦む」ことができて、その美しい言葉は「読まれるもの」を意味する「クルアーン」としてイスラム教の聖典となり、アラブをイスラム社会として統一する革命とになったという例を出し、
そして、第4話「われわれには見える ― 中世解釈者革命を超えて」では、11世紀末に再発見されたローマ法を綿密に読み込み、長い時間をかけて教会法として最編纂しなおしたことがいかに教皇や王よりも上位に位置する法の絶対性を生み出した革命となったのか、というルジャンドルなる人による「中世解釈者革命」なる解約を披露して、
必死にテキストを読み込み、必死にそれを語ることが、いかに革命となるのかということが語られる。

彼のいう「文学」は現代で言われるような「文学」の範囲だけを差すのではなく、哲学や宗教はもちろんの事、ありとあらゆる書かれたもの、例えば、マルティン・ルターを例にとれば彼の有名な『95ヶ条の論題』や彼の書いた法、彼の作った賛美歌まで、さらには歌やらダンスや壁画までを含めた広範囲のものであるとする。

本来テキストや本を読み込むことは、ルターやムハンマドがそうであったように、本当に読めてしまったら死んでしまうくらいの命がけの行為であるけど、 一方で「中世解釈者革命」から加速したテキストのデータベース化によって大量生産される類の、軽く簡単に手早く知識だけを得るために書かれたタイプの「情報」としての「テキスト」は読者に対する搾取でしかなく、そしてそんな「情報」は「文学」のふりをすることで「文学」の範囲を狭めて毀損してしまったと言いつつも、

知識や情報だけを求める本が氾濫し、命をかけたような本の読み方が廃れて「文学の危機」が現在叫ばれているけど、彼は人類が生まれた瞬間から壁画や踊りや歌といった文学は生まれ、ドストエフスキーが自分のサインを書ける人が全人口の10%もいない世界の中で本を書いていた事実や、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』が当時どれだけ売れず、第4部にいたっては40部刷って7部しか友人に配っていない事実を例に出して、間違いなく現代も文学が生き残っているし、将来的にも文学は革命を起こし続けるだろうとしてこの本は閉じている。

私はこの本を読んで、とにかく近年ないほど感動した。
ドストエフスキーとかニーチェとか出てくる例がやたらと琴線に引っかかりまくる上に、ルターやムハンマドの話もよかったし、そしてこうやってやたらと本を読んできたこととこれからも読み続けるであろう事を勇気付けられたようでもあった。

今まで私は色々な本を読みつつも、特定の本だけは、例えば『カラマーゾフの兄弟』や『ツァラトゥストラはこう言った』などは何度も何度も繰り返し読み返し、ベートーヴェンやバッハの特定の音楽を何度も何度も繰り返し聴いているけど、「これでちゃんと理解できた」とか「作者の言いたい事はこれ」だとか、もはやそんなレベルでは全く読んだり聴いたりいないし、それらの本を読んだり音楽を聴いたりすることは私が生きる事と完全に一体化しているとも言える。

しかしこれだけ読んでも「わかった」という感覚は全くせず、逆に読めば読むほど聴けば聴くほどその深遠の深さが判るくらいだ。その深遠はそれを生み出したドストエフスキーやニーチェやベートーヴェンやバッハそのものの深遠よりも深いのだろう。

「文学」の本質はその部分に、つまり「書いた本人以上のものがそのテキストに表現されている」というところにあるのだろうと思う。

文章を書くのが好きな人は、なんとなく書き始めた文章が書き終えれば自分が知らないままに自分以上のものが表現されているとしか思えない文章になっていたという経験があると思うけど、これは預言者ムハンマドが大天使ガブリエルに組み敷かれながら、神から預かった言葉を自分が何を言っているのか理解できないままに「誦んだ」のと本質的に同じであると思う。

この本では「テキストを書き換える」事が革命の本質であるといわれていた。
本気で本を読めば解釈せずにいられないし、本気で解釈すればそのテキストを書き換えずにはいられないし、その情熱こそが文学なのだ。
そして、何万何十万何百万の消えてゆくテキストの中で1つでも生き残ればそれは文学の勝利なのだとも言っている。

そう考えれば、例えば、憲法そのものを書き換えずにその解釈を意図的に広げて運用を変えるというのは、むしろ革命の機会を閉ざして執行者自身の権力の源を貶める道であるともいうことになってくる、
とか社会派みたいな事はとりあえずおいておいて...

私は今まで色々な本を読み、色々な音楽を聴いてきたけど、何か特定のものを読んだり聴いたりしたことを境にして、市民革命や産業革命やIT革命がそうであったように、世界と自らが一変してしまうような圧倒的に革命的な本や音楽をずっと求め続けていたような気がする。

しかし、それは神秘体験に依存してしまった宗教者が神秘主義に陥るような、薬物中毒者が一時の高揚を薬に求めるような、意識レベルを落とすことで世界と一体化する方向を目指したヒッピームーブメントの持っていた危うさを秘めていたものだし、私がいつの間にかそんなものを追い求めなくなっていたことも私の中でのひとつの小さな革命といえるかもしれない。

日常を生きながらも特定の本を繰り返し読み、特定の音楽を繰り返し聴き、そしてひたすら考え解釈し私の中にあって私を導き律する法たるテキストを更新し続けることで、「中世解釈者革命」のようにジワジワとゆっくりと権力や価値や方法が転換し、あるいは転覆して私の中で革命が進んでいた。といえるような気がする。
沢山の本を読み沢山の音楽を聴いたのは、そういった何度も繰り返し読んだり聴いたりするに値するものを見つけるためだったとも言えるかもしれない。

そう考えれば、私も昔と比べれば革命的と言って良いほど変わってしまったところが一つある。

それはフランス革命の文学的価値が「パンがなければケーキを食べればいいのに」といった架空の文学的テキストを書き換えることであったことは間違いないように、
私の中で若い頃に自らを圧倒的な権力でもって統べていた「幾ら食べても太らない」「から揚げ定食、コッテリ大の堅麺でネギ多い目」「カレーはのどごしを味わうもの」「ポテトチップは前菜」といった法が、
「なぜか食べてないのに太ってくる(ーー;)」「ラーメンはアレやし蕎麦にしとくわー」「カレーは一日一杯」「デザートは豆大福♪」というテキストに書き換わっていたことを革命と言わずして何と言おうや?

うん。それはただ単にオッサンになっただけやな。文学も革命もニーチェもドストエフスキーも何の関係もないわー

 

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