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2014年7月10日

ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン -悪の陳腐さについての報告-』/ハンナ・アーレントは世界を救ったか

ずっと前から読みたかったハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン -悪の陳腐さについての報告-』をやっと読むことが出来た。

この本は、ナチス親衛隊の中佐として何百万人ものユダヤ人を強制収容所に送り込むにあたって最も大きな働きをしたとされるアドルフ・アイヒマンが、終戦後に身分を隠して落ち延びていたアルゼンチンでニュルンベルグ裁判よりずっと後の1960年にモサドに捕らえられイスラエルでかけられた裁判で明らかにされた、ナチスがヨーロッパ各地で行ったユダヤ人迫害の詳細な記録であり、かつ、彼女自身が、その裁判と、アイヒマン本人と、そしてナチスの行ったユダヤ人迫害に関連する諸々に対する考察が述べられた本である。

自身が亡命ユダヤ人でありながらもニュルンベルグ裁判を見ることの出来なかったハンナ・アーレントはアイヒマンが逮捕されたことを知り、記者としてこの裁判を傍聴して取材し、それを記事にして雑誌ザ・ニューヨーカーに連載したものがこの本の元でもある。

ナチスの絶滅収容所の運営に一番大きな役割を果たしたナチス親衛隊の大物中の大物アイヒマン。
ドイツの敗戦が濃厚になると忽然と姿を消してどこかに消えてしまったが、世界の国々を欺けても、イスラエルの諜報機関だけは欺けきれなかった!
モサドは10年以上探しに探し続け、ついに南米はアルゼンチンのブエノスアイレスでひっそりと身を隠して暮らしているのを見つけたのだ。
ユダヤ人の敵であるだけでなく全人類の敵である、まさに悪魔の化身、アドルフ・アイヒマン!

Ecce homo!見よこいつを!

いかにも悪そうなツラだッ!こいつはくせえッー!ゲロ以下のにおいがプンプンするぜーッ!!環境で悪人になっただと?ちがうねッ!!こいつは生まれついての悪だッ!
ニュルンベルグに代わってお仕置きだーッ!

という風な雰囲気に包まれて始まったアイヒマン裁判であったわけだけど、この本の中でハンナ・アーレントは、そもそものそんな前提からひっくり返している。

まず最初の時点でアルゼンチン政府は彼が戦犯であることを知りながら移民として受け入れたふしがあるし、当初は過去を隠していたアイヒマンも時が経つにつれ自分がナチスの将校であったことを誇りつつ堂々と語り、記者の取材まで受けて公にしながらアルゼンチンで暮らしていたし、そしてモサドが彼をイスラエルに運んだのは、彼がアルゼンチン人であったと仮定してもドイツ人であったと仮定しても、国際法的には拉致やら誘拐以外の何物でもない。

そして、アイヒマン自身が裁判の中で「上の命令に従っただけだ。」「従順であることは美徳だ。」と語っているように本人もナチスの中では決して実力者でも影響力があったわけでもなく、上官から命じられるまま可能な限りに効率的にユダヤ人を国外に運んでいただけで、ひたすら実務的な仕事を行っていただけであるという。
アイヒマンは極悪非道な悪魔のような存在でもなんでもなく、「出世と昇進にしか興味がなかった」「小心者」「愚かでは無いが無思想」「虚栄的で虚言的」「想像力の根本的な欠如」といった言葉で表されるような小物でしかないとハンナ・アーレントは断じている。

そして、ナチスがこれほどまでの多くのユダヤ人をゲットーに送り込み、そして絶滅収容所で虐殺することが出来たのは、アイヒマンやナチスが悪魔のように残忍で冷酷だっただけではなく、様々なユダヤ人の個人や組織が様々な理由でナチスの「ユダヤ人問題の解決」に助力し、運搬や収容所の運営に手を貸したからだということを彼女は追求しようとした。

ユダヤ人である彼女が当時のユダヤ人の態度を批判することは社会的な意味でも個人的な意味でも大きなリスクがあった。
それでも彼女があえてそれを口にしたのは、それでも世界に問わなければいけないことがあってこそだった。

アイヒマンがどれほどの悪人かと思いつつ裁判の傍聴を始めた彼女は、実際に始まった裁判でアイヒマンのあまりの小物ぶりに驚き、まさにこの本のサブタイトルの「悪の陳腐さについての報告」の通り、あれほどの犯罪行為に手を貸したアイヒマンが余りにも陳腐であった事こそを問題としたのだ。

とは言え彼女は決してアイヒマンに罪がないと言ってるのではない。
昔から戦争にジェノサイドはつきものであったけど、ナチスのように1国家が1つの民族を地球上から消し去ることを実際に意図して行動に移したことは無かったし、こんな陳腐でしかなかったアイヒマンが過去の歴史上類を見ないそんな犯罪を為しえる事が出来たのは、アイヒマン個人の無思想性と倫理的鈍感さといった陳腐さだけでなく、ユダヤ人を取り巻く社会的問題とユダヤ人自身の問題、更には毒ガスや大容量の列車と言った圧倒的なテクノロジーの進歩が綿密に組み合わさったもので、アイヒマン自身の残虐性なんかよりも、そういったこれからも起こるかもしれない国家的犯罪の原因こそをこの裁判で明らかにするべきであると言っている。

「ユダヤ人殺戮が…将来の犯罪のモデル、未来のジェノサイドのおそらく小規模な、全くとるに足らないような見本となる」ことを妨げることができるだろう。

それこそがハンナ・アーレントが世に問いたかったテーマなのだろう。
彼女はこの目的を達してこそこの裁判が国際法廷として意義を持つと述べている。

そして、彼女はアイヒマンやナチスだけの問題でなく、ユダヤ人含む人類全体の問題としてアイヒマン裁判を位置付けることで、ナチスを擁護しているとか、ユダヤ人を否定しているとか、非ユダヤ人だけでなく、様々なユダヤ人組織から猛烈な批判にあい、また実際に多くの友人を失ってしまった。

結局、彼女がこの本で指摘した「将来の犯罪のモデル、未来のジェノサイド」はナチスが行ったようなレベルでは今現在まで起こらなかった。
冷戦、核時代、民族対立と数多くの危機を人類はあと一歩のところで踏みとどまり、自滅することなく生き延びることができた。

それは、彼女の懸念が悲観的に過ぎたとか、推測が根本的に間違っていたというよりはむしろ、彼女が自分自身が批判の矢面に立って自分の思う真実と正義を述べたからこそ食い止めることができたのだ。ということができるかもしれない。

もう何度も書いていることだけど、タルコフスキーの「サクリファイス」や「ノスタルジア」で個人的に大きな犠牲を捧げることで誰にも知られることなく世界を救済する。というモチーフが出てくる。

同じように、ハンナ・アーレントがこの本を書くまでにこうむってきた大きな苦難だけでなく、彼女自身にとってあまりにも大きな個人的犠牲を捧げてまで述べたことで、世界は誰に知られることなく救われていたのではないか。
とそんなことを思った。

この本を巡る顛末がそのまま「ハンナ・アーレント」なる映画になってこの間まで京都でも上映されていたらしいけど、結局タイミングを逃して観にいけなかった。
あーレリゴーなんか見ずにとっとと行っておけば良かったー「アナ」じゃなくて「ハナ」にしとけばよかったー

いやしかし、ハンナ・アーレントこそ世界と人が「Let it go」であることを許さず、自身は「ありのまま」であろうとした人ですな。

と、これがこの本の感想の次のテーマでもある。
この本の感想はまだまだ長いので次回に続く…

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