ポール・オースター『最後の物たちの国で』/絶望のひとつの形

かなり昔に読んで圧倒的に強烈な印象を受けて何度も読み返そうと思っていたにも拘らず、あまりにも絶望的な内容を読むのが辛くて気が乗らず、一回しか読み直していないポール・オースター『最後の物たちの国で』を久しぶりに読み返してみた。

内容は中上流階級の主人公アンナが、記者の兄が取材のために入って消息を立った国に単身乗り込むが、あらゆる秩序と未来が消えたその町で兄を探すことも帰ることも出来なくなり、野宿やら居候やらをしながら、ひたすらサバイバルしてゆく様を書簡形式で綴ったものである。

「個人」が完全に否定されてないがしろにされる絶望的な世界は実に様々な形を取りうる。
ある場合は世界秩序が根本から崩壊し、ある場合は巨大な規模の破壊的なパンデミックで、ある場合は完全な管理社会が構築される事で絶望が世界を覆う。

しかしこの物語は、北斗の拳的なヒャッハー!な世界でも、コインロッカーベイビーズのようなダチュラな世界でも、1984のようなビッグ・ブラザーな世界ともまったく違う、ジワジワ忍び寄ってくるような絶望に取り囲まれた世界が描かれる。
以前読んだ時はあまりにも現実離れした近未来的なディストピアな世界であるように感じたけど、久しぶりに読んだ今回はソマリアや南スーダンといった失敗国家のさらに進んだ形に思えた。
ポール・オースタはこの作品を「20世紀の現代の寓話」であるとみなしていたけど、21世紀の今となってみればそれはまさにすぐそこにでも起こりそうな現実的な物語なのだ。

医療、電気、水道、通信といったインフラが失われ、あらゆるものが、人から物から概念から記憶まで、道路すら瓦礫とごみに埋もれることで日々消えてゆき、警察は利権をむさぼり、産業や社会が停止して日常的な略奪、暴行、殺人に取り囲まれて全体がスラム化した街で殆どの人は路上で寝泊りして何かを拾うか盗むかしながら日々を生きている。
人は死ぬばかりで誰も生まれてこないけど、なぜか人は減らずどこからか補充されているように思える。
この街に来るまでは何一つ不自由の無い人生を送っていたはずの主人公は生き残るためにありとあらゆるもの、プライドから記憶から人間的感情から性別まで、最後には自分をも捨てることでゴミを拾いながら生き残りながらも、ほんの少し得る事の出来たささやかなものはそれ以上に損なわれ失われる。
本の中に描かれる物語は思いつく限り絶望的に展開し、主人公はそれに輪をかけて絶望的な状態に追い込まれてゆく。

色々な物語で「個人」を押しつぶす「絶望」を象徴するものは圧倒的な「暴力」であったり、逃れる事の出来ない「パンデミック」であったり、すべてを観て強制し管理する「目」であった。
しかし、この本の世界で圧倒的に絶望的なものとは、無法地帯となった環境や状況、あるいは主人公を取り巻く運命であるというよりも、生きるために「今」だけに注力しなければいけないことなのだ。
何かしら現実と乖離した事、空想は勿論、まだ世界がまともだった過去の事や、いつかは報われるであろう未来の事を考えたり思い浮かべればそれだけ「今」から注意が逸れて隙が出来る。
そんな事に何かしらのエネルギーを注げば、今日を生き残るための何かしらのチャンスを逃したり、酷い場合には他人から自分の持ち物や命を奪われる事になったりもするのだ。
つまり生きる事のすべてを「今」に向けなければ生き残れない事そのものが絶望なのだ。
そしてそれは「暴力」や「パンデミック」や「目」といった外部から降りかかってくるのではなく、自分自身から湧き上がってくる物である所がさらにその「絶望」の深さを物語っているような気がする。

「絶望」があらゆるリソースを「今」に注ぎ込まざるを得ない状況を指すのだとしたら、
未来を思い描きそれに向けて歩むのは言うまでもなく一番理想的な絶望の対局にあるものとなるのはわかるけど、
そんな未来を思い描けずに現実ではない自分の持つ仮想的な世界で、或いは過ぎ去った過去の世界で生きる事を選びつつ現実で生きていけるという事はそんなに不幸な事なのでは無いのかもしれない。
それは個人的なことに限らず、国家から団体までそうであるような気がするし、
なんかこう今まで考えもしなかった「絶望」のあり方を一つ知ったような気がするのであった。

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