茹蛸なら土偶に
メバルの刺身にメバルの煮付け、茹蛸を刺身に。
茹蛸の茹で具合が絶妙で上手く柔らかく仕上がった。
今年はやたらと蛸を茹でたので、茹蛸に関してはもう絶妙の域に達してきた
コツは足から徐々に浸けて、沸騰が止まれば上げて、沸騰が始まったらまた浸ける。
なので、鍋が大きければ大きいほど湯の温度が下がらず良いということになる。
蛸が全部浸かり裏返して再沸騰して一分くらいで引き上げて、直ぐ水に浸けて冷やせば何とも柔らかい茹蛸になる。
用は茹ですぎない、鍋の湯の温度をなるべく下げないって事ですな。鍋の湯に酢をちょこっと入れれば腕が綺麗な赤色に発色する。
塩揉みせずに片栗粉でもめば良いとか大根で叩けば良いと言う話もあるけど、土偶は塩揉みオンリーひたすら15分以上もみ続ける。モミモミと。
茹蛸ってのは何ともプリチーな形やといつ見ても思うけど、蛸からすれば怖い絵なんやろう。
蛸が俺に見つかり、かつ俺がスルーしなければ、ほぼ100パーセントの確立で茹蛸にされるので、蛸にとっては土偶はウツボよりも恐ろしい存在に違いない。
某氏が四苦八苦しながら長い期間をかけて一つの文章を練っているのを実際に見ていると、ブログに書かれるような数分から数十分でひねり出される自分の文章が、以下に薄っぺらで詰めが甘いかと思うことが多い。
自分のブログの文章を後から読んで「あーもっとこここういう風にかけるやん」と思ったりするけど、それでも中々ザクッとええ感じに書けていると思うのもほんのたまにあるわけで、薄っぺらで詰めが甘い大半の物の中にもきらっと光るのも無くは無いようだ。
一つの文章をきっちり時間をかけて書いてゆくのと、ブログで短期間に書き散らしてゆく事の違いは、一つの曲を延々練習して解釈を深めて表現力をあげるクラシックの演奏家と、ライブのアドリブにすべてをかけるジャズのミュージシャンの違いようなもんかと。
某氏の書いている文章はスタジオレコーディングのようなものやけど、俺のブログはライブの一発勝負みたいなもんやね。
最近きっちりした文章を時間をかけて書くことがほとんど無い。
最近で思いつくのは自分が作った某システムと再構成した某システムの仕様書くらい。
仕様書を文章の括りに入れるのも微妙な感じやけど、それでもTexで仕様書書いても、文書をきっちり作るのは結構楽しかった。
自分はよっぽど文章を書くのが好きやねんなと自認すると同時に、なんかきっちり書きたいなと切に思った。
たこ膳・学園通り沿い
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