逃げない自転車乗りは良く訓練された自転車乗りだ。
額を割って血痕がこびり付いていた自転車を洗った。思いのほか大量の血がついていて驚く。ハンドルを極短のフラットバーから最初に使っていたトラック用のドロップに戻した。これで見た目はまともな自転車になった。鉄むき出しのハンドルに少しバーテープを巻いてみた。
ポテトチップのように歪んだ前輪を見て何ともいたたまれない気分になる。怪我をしたのは私の慢心のおかげである。自転車は悪くない。と改めて思う。
額を割って一週間が過ぎ、一応傷口は閉じた。頭を洗おうが顔を洗おうが無問題である。
頭を洗い、顔を洗う事が出来るのがどれだけ有難いか。などと思い、「またか。」と自分自身にうんざりする。
これまでの人生で、何かを無くしたおかげでそのものの有り難味が分かると言う事をどれほど繰り返してきただろう。無くした当初はそう思っても結局何不自由のない生活に戻るとそんな事は綺麗さっぱり忘れてしまう。そして同じ事を繰り返す。このサイクルで私が一歩でも前に進めたのか?
こういった繰り返しで学ぶべき事は一つ。頭で考えて口に出す事と自分がそうである事とは全く別の問題である。と言う事である。
経験的に言って、頭だけで悟ったつもりでそれらしい事を述べたとしても殆ど意味は無い。頭で理解しているが故に余計に性質が悪いくらいだ。
考える事と口にする事がその人を表わすのではなく、その人が実際どう行動するかがその人の本質であるように思う。
逆に言えば、克服しがたい自身の弱さは行動の上で現象しなければ特に問題とならないとも言える。
良い歳をして、口ばかりで行動が伴わなずに自分の弱さを振りかざず露出趣味の人間は余りにも醜悪である。
良い加減に、口ではなく、行動で自分自身を表現するような人間になっても良い歳だ。と自分自身に言い聞かせた日曜日であった。