戦後処理が始まる

色々な意味で色々な歴史の区切りの日であり、ある時代が終わった日である。
例えば、長年使っていたプロバイダーが廃業するため、この日をもって長年使っていたメールアドレスを無効にしたため、そのメールを私が受信する事は一生無くなった。など。
パワーバランスが変わり、戦後処理が始まり、やがてまた新たな秩序が形作られるのだろう。次にはどんな時代が来るのだろうか。
色々なものが流れて行く中、私はずっと同じ所に微動だにせず立っている。
その場で天上の高みを目指す、あるいはその場をひたすら掘ってゆくのならそれもまた意義があるかもしれない。それでも、淀むことなく留まり続けるのはとても難しい。
「不死」の辛さとは恐らくこういったものに類する感情なのだろう。


現在の時点での自分自身と、過去のある時点での自分自身の間に、おおよそ渡りえない溝が横たわっていたとしても、また過去のある時点では肯定されていた事物が、現在の時点で否定されていたとしても、過去に自分自身私がそう感じそう考えそう行動していた事実は否定できない。
過去の自分の感情や過去の自分の言動を間違っていたとして否定するのはたやすい。恐らくその「たやすさは」何物かを肯定するよりも否定する事の方が遥かに簡単であることに因るのだろう。
現在を肯定するために、過去に対する否定を根拠にしたところで、また同じ事を繰り返すだけのように思える。
そもそも、特定の事物に対する肯定と否定がめまぐるしく入れ変わる自分の精神を、信用出来る人などはたしているのだろうか。
「非自分」であるものへの徹底的な否定によって、相対的に自分を肯定している様は何とも醜いものである。
歴史解釈に人間や社会や時代に対する探求の意義があるとしても、我々個々が自分自身の問題として具体的に学び、現実的に得ることが出来る何かがあるとすれば、「過去の過ちを再び犯さない」なる教訓以外にないだろう。
とはいっても、歴史上の何かの過ちを見つめる事が、過去を全否定する歴史解釈につながってしまえば、そこからは何も生まれないに違いない。
お互いがお互いを否定するかに見える、過去のある段階では真実であった事と、現在の時点で真実である事のどちらをも肯定することから、一つの歴史の解釈が生まれるのではないだろうか。
過去の事物がもたらしたもの、現在の事物がもたらしたもの、そして過去と現在の事物の対立によってもたらされたもの、それらが肯定できれば、自分自身も肯定できるような気がした、7月最後の日であった。

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