自画像を見る / 何かが切り替わる /生きる事はゼロサムゲームではない

「誰かの描いた自画像を見る」と言う行為は、その誰かが自分の中に見つけて表現しているなにものかを、他人である私が見ると言う行為である。
そしてその自画像の中に他人の表現しようとしているものを見る、という事は、自分自身の中にある同じようなその何ものかを見つめ、それを意識する。という事にもなるのではないだろうか。
例えば、花々に包まれた自画像に微笑を禁じえない人と、自身の狂気や醜さを描いた自画像に目を奪われて立ち尽くす人の間には、その自画像に投影する自分の姿や何かしらに対する姿勢の違いが幾分あるに違いない。と思うのだ。
昔風で伝統的な、絵の中に自分ではない色々な小道具を書き込んで自分の教養や知識をアピールし、自分自身の良い所ばかりを表現しようとする類の自画像が概してどれも同じように見えるのは、自分自身をリアルな自分以上に良く見せようとするありきたりの虚栄的な意図こそがその絵から一番リアルに感じられてしまうかもしれない。
それに引き換え、同じような自分自身ををリアルな自分以上に良く見せようとする意図の行為でも、若い女の子が撮るような強い光で顔の凹凸を白く飛ばしてまで自分を可愛く友達と仲の良い瞬間を撮ろうとするプリクラ的なものは、どこまでも純粋でどこまでもストレートに健全で微笑ましい、自己表現と自己肯定の試みであるように感じられる。
私の好きな画家に自画像ばかりを描いていたエゴン・シーレと言う人がいる。
彼は顔をゆがめたりしかめっ面をしていたり、不自然に奇妙なジョジョ立ちのようなポーズをしていたり、陰部をさらけ出したり自慰行為をしていたりと、ひたすら自分の醜いところや奇妙なところをばかりにスポットをあてた自画像ばかりを描いている。
そこには伝統的自画像にあるような虚栄心も、プリクラ的自己肯定への試みもどちらも含まれていないように見えるし、彼の自画像からは、自己の統一性だとか一貫性だとか美点だとかに全く目をくれずに、ひたすら自分の醜さや奇妙さばかりを分裂的に暴き立てようとしているような印象を受ける。
そして、そういった自分の汚点をばかりを見つめ、醜い自分ばかりを表現する事の中にこそ、単純な自己肯定では表せないほどの、鬱屈して歪んだ形のナルシズムが倒錯した形で多分に含まれているような気がするのだ。
ひたすら狂気に包まれて、ひたすら醜く、ひたすら深い苦悩に包まれた様を描いたような絵ばかりに惹かれる。ということは言い換えれば自分の醜い所や自分の狂気や自分の苦悩ばかりを見ていたという事になるのかもしれない。
何のためにそれを見つめるのかといえば、当然それを克服したいという意図なのだろうけど、それはやはり倒錯した形でのナルシズムでもある。
そして、幾ら見つめたからといって、幾ら向かい合ったからといって、それだけでそれが克服されるわけではないのだ。


前にこのブログに書いた画家の石田徹也は自分の絵を見てただ同じように苦しみむだけじゃなくって、笑ってくれたり可笑しく思ったり色々な風に受け取って欲しいと言っていた。
彼の絵を見て、強烈な苦悩にただ共鳴してしまうのではなく、「おかしみ」を受け取って「くすっ」と笑う人は、苦悩の中にあっても人生や生活におかしみや楽しみを感じることの出来る人なのだろう。
そして、それは、恐らく自己評価や人生に対する捉えかたのようなものともかなり密接に関係し影響してくるようにも思えるのだ。
精神科医の中井久夫は「人はその最高かそれに近いところで評価されるべきで、最低で評価されたら身もフタもない」と言っていた。
考えてみれば、醜い自分や苦悩の中の自分だけをひたすら見つめるという行為は、ある意味で、自分自身に対して最低の部分や状態で評価しようとしている事でもあるような気がする。
そして、不思議な事に、自分に対しては最低の部分を見ようとすればするだけ、他人に対しては最高の部分を見ようとする傾向が出てくるように思える。
自分自身を最高の部分で評価しようとしたところで何も見つからずに呆然としてしまうとしても、少なくとも最低で評価して自分自身を全否定してしまうよりは遥かにましである。
他人の美点が理解できたり見えたり評価できたりするのなら、自分に対しても可能なはずである。
何か特定の一つのものに対する肯定は、それと対立する別のものへの否定になると今まで考えていた。
選択という肯定の行為は構造的にその他のものに対する否定の行為にもなると思っていた。
そして、一つのものと、それを選択すれば否定されるものを同時に受け入れる必要があった場合、その二つはそのままの対立した状態ではなく、より高い次元で統合される必要があると思っていた。
言い換えれば、その二つを受け入れるためにはその二つを統合せざるを得ないわけである。
そして、その一つのものとそれに対立するものを統合して受け入れる事は、裏を返せばその二つのそのままの形に対する否定でもあるわけだ。
ゼロサム的に対立するとしか思えないAと非Aなるものへの肯定の欲求は、統合の方向に突き詰めれば突き詰めるほどAと非Aなるものの両方に対する否定となってしまう。
これはある意味からいえばジレンマでしかない。Aと非Aが同時に肯定されて欲しいだけで、決して統合されたBが欲しいわけではないのだ。
結局の所、このジレンマに陥ってしまうと、選択を行って一方を否定してしまったり、統合してしまったりするのをためらったまま、対立したり矛盾したままのものが乱立し始め、徐々に混乱が蓄積してゆく。
そしてある日気付くとただ混沌の中に立ち尽くして身動きできなくなってしまった自分を発見することになるわけである。
本当はAだけが欲しかったのに、非Aを否定したくないばっかりにこんなところに立ち尽くして全てが遅かった事に気付いたりもするわけである。
しかし、この日、対立するように見えるいくつかのものが同時に肯定されるには、必ずしもそれらが統合される必要は無いのかもしれない。という事実を見た気がした。
窓越しに夕日に染まった景色を見ながら、対立するいくつかのもの、テーゼとアンチテーゼは必ずしもジンテーゼされたり止揚されて統合される必要は無いのかもしれない。という漠然とした予感を感じた。
Aと非Aを統合してBとすることなく、Aと非Aを同時に受け入れる事が出来る道もあるかもしれない。と目の前を流れる暗くなった景色を見ながら、身を切る冬の風の中自転車を走らせながら思った。
矛盾のままAと非Aを同時に受け入れる、どちらも肯定も否定もせずに、ただ受け入れる。そうすると自然とAと非Aの対立の図式はいつのまにか解体されている。
そう書くと単純だが、それはとてつもない高次な精神活動のように思える。論理の彼岸にある状態であるように見える。
それは花々に包まれた自画像を見て自然と微笑むように、石田徹也の絵を見て「くすっ」と笑うような、あらゆるものに祝福を与えるような境地なのではないだろうか。
そしてそれは、余りにも通常の感情や論理による理解の範囲外にあるがゆえに、どちらをも同時に否定しているようにすら見えてしまうだろう。
生きる事はゼロサムゲームではない。という認識はなんだか心休まるものであるし、それを知る事で自分の中の何かが切り替わったような気がする。
思いつめて苦悩のどん底を転げ周り、そして気付いて出した結論と言うのは大抵チープなものであり、そして遅すぎる。
しかし、その結論が肯定されないことは、それが否定された事になるわけではない。
その結論が否定されずとも肯定されずとも、その結論はただ受け入れられて記憶され、そしていつか祝福される日が来るだろう。

5件のコメント

  • んー色々テストしてみたのですが、このブログ自身自体からとシーサーブログからはちゃんとトラックバックできました。
    はてなダイアリーの問題ですかねぇ。GETメソッドだけを使ってトラックバックを送る仕様なのかもしれません。
    とりあえず、手動でトラックバック追加してみました。
    トラックバックの意味ないけど…

  • 一則多 / 色即是空 / 山は山ではない、故に山である

    たぶん、この状態は分かると思う。いや、よく分からないかな。分かる、しかし分からない。…

  • この XML ファイルにはスタイル情報が関連づけられていないようです。以下にドキュメントツリーを表示します。

    1
    トラックバックの送信は、HTTP POSTメソッドを使う必要があります。
    と言われました。
    はてなダイアリーどうなってるんだ!

  • TBどもです。が、こっちでは受信してませでした。
    スパムTBブロックのためにTBスクリプトへのGETメソッド全てをブロックしておりましたが、
    GETメソッドも使うトラックバックもあるようで、解除しときました。
    トラックバックURLの若干変わっとりますので、
    もう一度送ってやってもらえますでしょうか??

  • 分かったような分からないようなTBを送りました。
    わりとどうでも良いことかもしれませんが、TBのURLにアクセスすると403 Forbiddenになりますえ。

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