書く、話す、選択する

「ブログを書く」に限らず、何かしらを書いたり語ったりという行為は、自分自身の中にあるものを出すというよりはむしろ、自分自身そのものを作ってゆく行為の方に近いのではないかと最近思うようになった。
喋ったり文章を書いたりしていると、自分自身の発言に自分自身が「私はこんなことを考えていたのか」と驚くことは誰にでも良くある経験だと思う。
今までそれは「自分自身の中にあったものに気づいた」現象だと思っていたけど、むしろそれは自分の周りに漂っている未分化で非言語領域にあったなにものかを、言葉で区切り形にする事で自らに取り入れたと考える方が妥当であるような気がする。
誰かと喋り、誰かと語り、また誰かに向かって語り書くという事は、自分がどのような人間であるかをその時点での自分をその相手に対して表現することではあるけど、ただそれだけではなく、むしろ、自分自身がその相手に対してどういう人間になりたいのか、どういう考えを持ちたいのか、どういう価値を持ちたいと願っているかを表現し、そしてそのことによって自らを基礎付けて方向付けてゆくことであると思うようになった。
誰と何をどんな言葉でどんな語彙で語るのかによって、自分は常に更新されてゆくのだ。


そう考えてみれば、このブログも仮想的な読者を想定した私の私自身の希望や意思表明であったことが自分でもとてもよく分かる。
しばらくこのブログにまともなエントリを全く書かなかった。何年間も続いていたものが突然途絶えたのだ。
ツイッターに移行した、なんとなく飽きた、書く事がなくなった、などと色々な理由のようなものは考えられる。
しかしなによりも私が書かなくなった、あるいは書けなくなったのは、私の想定していた仮想読者が私の声を聞いてくれるとは全く思えなくなってしまった事、あるいはまた私の中にあった特定の事に対する情熱が図らずも消されてしまった事にもあったように思う。
そして、私がブログを書かなくなった間、私はリアルの世界でそれなりにちょっとした決断を行い、そして何かしらを選択した。
そしてその「選択」の結果、私そのものの方向性が大きく変わったように思う。
言葉を発することと同様に、文章を書くことと同様に、「選択」すること自体もまた、自分自身を基礎付けて方向付ける手段であったことを意識した。
最初に基礎付け方向付けられた自分があり、その自分自身が「選択」を行うのではなく、
自身が意識的に「選択」を行うことそのものが、自分自身を基礎付けて方向付けることであったのだ。
「選択」が無いことには前に進めない。そして私は前に進むために、死なずに「今」の「生」を「選択」している。そうして「選択」されたものは祝福されねばならないのだ。
このままツイッターのログ置き場と成り果てようとしていたかに思えたこのブログに突然こんなことを書いたのも一つの「選択」である。
このブログで私は、私自身の人格や考えや価値を表現しようとするのではなく、それらを作ってゆこうと方向性を持って行くことを「選択」しようと思う。
たとえ私が空っぽになってしまい表現するものが何も残っていなかったとしても、自らの目指すものくらいは書くことが出来るだろう。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。

PAGE TOP