私の欲望は誰の欲望か?

最近なんとなく、広告がやたらと直接的にダイレクトに欲望を煽り立てているような印象を受ける。
例えば、昔のファッション雑誌系の広告のコピーは「この春欲しい春色ニット」(誰が欲しい?)あるいは「みんな大好きロングブーツ特集」(みんなって誰?)なるジャック・ラカン的な「人間の欲望は他者の欲望」な隙を死角からこっそり遠まわしに突いてくる、微妙に奥ゆかしい、本人が斬られたことに気付かない見事な太刀筋だった気がする。
しかし、最近は「セレブに見える小物使い」(セレブに見られたい?)とか「七色チークで愛されメイク」(愛されるメイクをしたい?)などと余りも直接的に過ぎる、真正面から急所を狙ってくるようなコピーが多いような気がする。
それは以前までは表立って言うのが憚られた隠された欲求や欲望、例えば「実際はそうじゃなくてもセレブに見られたい」「コテコテメイクしてでも愛されたい」を堂々と掲げることが広告としてのリスクではなくなったという事でもある。
言い換えれば、個人が追求する欲望に対する制約やタブーが限りなく無くなったともいえる。


欲望に対するタブーや制約がなくなると、欲望を需要と捉える商行為の方法論では、存在はしているけど隠れていて気づかなかった潜在ニーズの開拓といった効率の悪い古い手法ではなく、もともとは無かった欲望そのものを人々に植え付けてあおり立てて回収する手法が一般化する。
畑に種を蒔いて育ててから収穫するように、人々の欲望は煽り立てられ育てられ、育ちきったところで収穫される。
いわゆる「ニーズの創出」というやつですな。
自分の中に欲求があること自体は当たり前であっても、それがたとえ他者の欲望からの借り物や集積物であったとしても、少なくとも商行為によって収穫されるために生える一本の欲望になどなりたくない。と誰でもが思うだろう。
自分の中にある欲望の質と量と種類によって人間の個性というものは決まってくる。
この私を規定している筈の私の欲望は、果たして本当に私の欲望なのか?
この私の欲望する欲望は私を正しい方向に導いてくれるのか?
テレビや新聞などの既存メディアがもう既に「報道メディア」ではなく「広告メディア」になってしまった。
と言われて久しい今、私はそんなことを思い、欲望について欲望するのであった。

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