ブログといふもの
「ブログは市民ジャーナリズムである」てな事を誰かが言っていたけど、しかし実際のところ殆どのブログはただの「日記」らしいし、俺が定期的に購読しているブログもまた「日記」である。
結局のところブログが「日記」としておもろいかどうかと言うのは「個人性」に拠るものが多い。つまりは書き手の魅力次第なのである。
アイドルやらタレントやらスポーツ選手のブログが人気なのはそういうわけであり、見ず知らずのオッサンやらOLやら高校生のブログが概してツマランのはそういうわけである。
俺が変わった人間であるとは自分でも思うけど、だからといって俺自身に面白みがあるとか、俺が魅力的であるというのはまた別問題である。
色々な人と話したりあったりするたびに、なんと俺には面白みも魅力もないんやろう。と常々思うのだが、このブログを始めるにあたって、俺を直接知らない人間でも意味のあるような文章を書こう、なるべく日記的な文章を避けようと言う事を考えていた。
俺個人の行動記録ではなく、何かしらからの俺個人の考えなり見方を書こうと思ったわけである。
俺がアレをしたとかコレをしたとか毎日書き連ねたところで興味を持つ人間なんか殆どいないやろうし、赤裸々に自分の生活を公開したくもなかった。
「普遍」とは言わないまでも、少なくとも行動のレベルの個人性から脱したところは目指していた。
一方で、最近の本読みのテーマに「個人性」やら「個別性」を意識するようになってきている。
同じような事を「帰納的人間」というエントリで書いた事があるけど、たとえば最近買った本の中に『フランス革命下の一市民の日記』というのがある。
別にフランス革命にもフランス市民にも興味はないけど、それが一市民によって書かれた日記であると言う事で興味をひかれた。
内容をチラ見したら、これはもう今で言うブログと全く変わらん。
いついつ何した、誰と会って何を食べた。誰それは嫌な奴だ。誰それが処刑された。などなど。
確かに読むのは退屈そうやけど、個人的な事にも社会的な事にも均等に言及されている文章をこれだけの量をそろえれば個人から見た歴史的な史実の見方が解るし、ジャーナリズムにもなりうるだろう。
記録とか資料の意味合いで、日記がジャーナリズムになるか行動記録になるかは単純に言及された内容の比率になるのかもしれない。淡々と感想を加えずに記述してあればなお良い。
この「土偶StaticRoute」は社会的な話には一切言及されないし、かといって個人の行動記録に徹しているわけでもない。
「淡々」とはほど遠いし、余りに感情的で人間的でもある。
ジャーナリズムでもないし日記でもない。では何だ?ということで「土偶StaticRoute」である。私自身がジャンルである。と言うほどの自信もないので、ブログである。と言う以外にないだろう。
他にある雑多なブログと同様、個人的な行動記録もあれば何かしらについての考えを述べたエントリもある。それらが時系列に並んだ状態で混ざり合って一つの形となっているのが「ブログ」と言うのかもしれない。
ブログが出版されてそこそこ売れたという話を最近よく聞く。
また、フェルディナン・ド・ソシュールは直接に著作を書いた事はないけど、彼の講義録である『一般言語学講義』が「構造主義」の流れを作った。ということがよく言われる。
将来「ブログ」から出版物だけでなく、なにかしらの学派のようなものが生まれるとおもしろいなぁ。などと思った。
いえいえこちらこそいつもコメントして下さって嬉しいです。
ブログについてちょっと面白そうな記事がありましたので紹介しときます。
興味があれば読んでみてくらはい。
「日本語がブログでの使用言語で世界一のシェア」
http://slashdot.jp/articles/06/05/03/0224243.shtml
よくわからんコメントにコメントしてくださってありがとうございます(´▽`*)
ほんと…ブログの存在って難しいですね・・・。
無駄に長い文章読んで下さってありがとうございます。m(_ _)m
いやいや「日記」がイカンとか言おうとしてる訳じゃなく、三十路のオッサンの「日記」なんか誰が読みたいか?と思って、「日記」になるのを避けようとしてたわけで、うら若き乙女の「日記」と同列にするのもおこがましいくらいです。
確かに読み手を意識せんと、文章てのは上手くなりませんなぁ。などと思います。
よくわからん返事でスマヌ。
私もブログやってますが。
確かに「ただの日記」が多いです。
てかタイトル「日記あめ」だし・・・もともと日記書く気でやってますね(^^;)
でも、その「ただの日記」を、見る人がいるという意識で書くのと、意識しないで書くのとではやっぱり全然違うんだろなぁ~って思いマス。
うは、よくわかんないコメントでごめんなさい!!!