感情と感覚から身を守る場所
せめて一週間に一度くらいはブログを更新しようということで何か書く。
うん。ついこの間まで夏だったのに、気がつけばもう冬になろうとしている。
太陽が照りつける海で遊び、森でキノコと戯れ、家に引きこもってスマートフォンとアンドロイドを改造しているうちにいつの間にかあたりはすっかり寒い。
ほんの数ヶ月前は耐え難いほどの暑さだったのにかかわらず、もうすでにその感覚をすっかり忘れている。
一時は永続的な状況だと思えた感覚による環境認知など実にあやふやなものだと思う。
そしてまた夏が来れば今の寒さもすっかり忘れているのだろう。
人間は季節なる環境の変化によって暑いだの寒いだのと振り回される。
同じように、悲しいだの嬉しいだの楽しいだの辛いのだのといった感情に翻弄されるのも、自分ではどうにもならない季節の移り変わりのようなものだ。と言えなくもない。
とはいえ、感情や感覚だけが自分自身の全てなのだとしたら、楽しかったり嬉しかったりする時は良いにしろ、悲しかったり辛かったりする時はなんともいたたまれない。
自分の中の全てが感情や感覚だけになってしまうのはとても辛いことでもあるし、自分の中の全てが、自分ではどうにもならない周りの環境によって決定されてしまうのはなんとも耐え難い。
そうならないために、自分の中に感情や感覚とはまた別の、知性だの思考だの意思だの美なるものだののための場所があればいいなと思う。
感情や感覚の大波にさらわれそうになったときにそこに逃げ込んだり、そこから眺めたり出来る場所を持っているということはとても大事だと思う。
そしてまた、自分の中にそんな場所の存在を感じることで、なんらかの自分自身の独立性のようなものを知覚すること出来るような気がするのだ。
私は自分の中のそんなもののための場所を広げるために、本を読んだり音楽を聴いたり芸術に触れたり友達と話したりするような気がする。