包丁を研ぐ

時間をかけて包丁を研ぐ。菜切1本、出刃2本、柳葉3本、特に寿司屋のバイトを辞める時に店長に貰った柳葉を丁寧に。
この包丁を研いでいると実に色々なことを思い出した。
大した寿司屋じゃなかったけどあの頃は実に楽しかった。色々な可能性が目の前にあってどれをも選択できる気がしたし、未来は実に楽しいものである予感がした。
今思えば予感だけがあったような時代やったけど、結局「手に入れようと思えば手に入っていた」感覚というのは幻想でしかないのだ。
更に何かを失ったような感覚というのも結局思い込みに過ぎない。もともとそこにちゃんとした物なんか何もなかったんやしね。
それでも、共同の幻想を共有しているような感覚、つまりは誰とでも分かり合えるような気がする感覚を共有していた事だけは、貴重だったような気がする。


そういえばその頃、「俺についている客」ってのがあったのだ。
寿司を握りながら時に笑わせ、人の少ない時は結構真面目に話し込んだ。魚に関する講釈からパソコン相談に至り読書指導まで実に色々喋った。
今から思えば信じがたい話やけど、俺は客商売に向いてるとすら思っていた。
怒涛の勢いで人が押し寄せてあっという間に去っていった。
あの頃にあそこで付き合いがあった人の行方を俺は何も知らない。二年ほど前に突然電話がかかってきてとんでもないことをカミングアウトした人がひとりいたけど、結局それが金の無心で激しく凹んだ。
結局幻想はすべて消え、残っているのは魚を捌き、寿司を握る技術と店長に貰った柳葉一本。それでも魚が好きなのは昔から変わらないし、そんな混沌とした幻想から生まれたものもまたある。
そういうわけで、買ってきた「ツバス」を研いだばかりの出刃で三枚におろし、柳葉で刺身にする。
よく切れる刃物を使っていると何とも爽快感がある。
現実の二十日大根の「間引き菜」を添えた、現実の包丁で切った現実の刺身は何とも美味しかった。

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