意思して恵みの雨だと思えば良い

朝起きると「なんじゃこりゃ」と言うほどの雨。
最近は雨だからと言って腹を立てないように、「この雨のおかげで土偶家のヘチマも大きく育つ。ありがたやありがたや」と思うことにしている。
この振り具合で出勤できたらどんな天気でも大丈夫やわなと半ば感心、半ば呆れながら自転車に搭乗。。
雨は雪なんかと違ってちょっとの踏み込みでホイルスピンしたり低速でタイヤがロックしたりしないので何ということはない。
良く「知・情・意」てなものが人間の言動とか教育とか信仰を語る文脈で使われる。
こういうブログに文章を書いたり、何らかの決意をしたり、本を読んでうむなるほどと思ったりといった生活のほとんどの場面では「知・情」のレベルまでしか到達していないわけで、そんなことは「意」のレベルに持っていかないとほとんど意味はない。
「考えてる」とか「思ってる」とか「その予定である」は進捗度でいうと全体の10%行ってないぐらいなのではないかと思う。
で、自分が何かを思ったり、何かを考えたりして出たある程度の結論のようなものは、殆ど全て「意」が無いように見える。
よくよく考えれば、思って望んでいる事と実際やっていることが絶望的に違っている訳で、なんについてでも「意」の段階とか、「意」の問題が一番難しいというけど、実際その「意」で実践できてないと意味がない。
というわけで、「情と知」の段階に「意を意識する」というのを意識してみる。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。

PAGE TOP