行動が人格を決定する。逆は不可。
ありがたい事になぜか昔から私を「師匠」のような存在として見てくれる人が何人かいた。
ずっと私はなぜか私を慕ってくれる彼らにとって、一つの救いの具体例であったり、なにかしらの到達点のモデルタイプの一つのようなものにならねばならない。とずっと思ってきた。
そんな考えは、今思えばとても傲慢であったけど、ある意味では自分自身を精神的にも人間的にも人格的にも高めようとする一つの原動力となっていたように思う。
そして、いつからか、私とは全く別の道を歩みだしてちゃんと生きている彼らを見るにつけ、
ニーチェさんのように
まことに、わたしはあなたがたに勧める。わたしから離れて、このツァラトゥストラのおもかげをふりはらいなさい!もっといいことは、ツァラトゥストラを恥辱と思うことだ!たぶん、かれはあなたがたを欺いたのだろう
いつまでもただの弟子でいるのは、師に報いる道ではない。なぜあなたがたは、わたしの花冠をむしりとろうとしないのか?
あなたがたはわたしを敬う。だが、いつか、あなたがたの崇拝が崩れる日が来たら、どうするのか?倒れてくる彫像につぶされないように、用心するがいい!
いま、わたしがあなたがたに求めることは、わたしを捨て、あなたがた自身を見出せ、ということだ。そして、あなたがたがみな、わたしを知らないと言ったとき、わたしはあなたがたのところに戻ってこよう。
などと思っていた。
でも、新たに「貴方は私の師である」と言われれば、師たる人物に相応しい人間ならねばならぬと思うし、
自分が愛されていることを深く意識し、自分が深く愛していることを意識すれば、愛されるに足る、愛されるに相応しい、愛するに足る、愛するに相応しい人物にならねばならぬと思う。
人がなにかしらである、という認識は、人がそうであるという現実が認識されるのではなく、与えられた認識が現実を形作り導くのだと思う。
アウグスティヌスは「本当の信仰を持つからちゃんと祈れるようになるのではなく、本当の信仰を持つもののように祈っていると自分が信仰を持っていることに気付く」
というような意味の事を言っていた。
同じように、人格的に優れた人間であるから、適切で、公正明大で、まったく後ろ暗くない行動をするのではなく、適切で、公正明大で、まったく後ろ暗くない行動をするからこそ、人格的に優れた人間に近づいてゆくのだ。
と、そんなことを思った日だった。