生きてゆくふりをして生きてゆく
久しぶりに村上春樹のデビュー作である『風の歌を聴け』を読み返した。
彼はその中で
文章を書く事は自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みに過ぎない
と語っている。
私が村上春樹を好きなのは、彼が文章を書く事で自分自身を含めた世界を丸ごと救済しようとしている。と感じられるからだ。ということに気がついた。
それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう
この彼の言葉を読めば彼のそんな思いがひしひしと伝わってくるように思う。
しかし一方で、彼にこの本の中で「今に頭の中でカチンと音がして楽になれるんじゃないか」と主人公である「僕」に言わせていた。
考えてみれば私が色々な本を読んで色々なモノの見方や価値や思想に触れようとしていたのはこれと同じ種類の事を望んでいたのだろうと思う。圧倒的な何かに触れることで頭の中でカチンと音がして救われ、そして根本から自分が変革されて自分がそれを境に一変し、世界がとても住みやすいものに変わってしまうようななにものかに出会う事を。
ひたすらそういった志向でそういったものを探し続けていれば、時々は、自分が根本から覆されるような、自分の中の何かが更新されるような、このまま私は変わってしまうのではないかといった様な何かにぶつかることはある。
しかし、それは一時的なものに過ぎず、ふと我に返るといつの間にか元に戻っている自分に気付くということを繰り返してきた。
巷には「この映画を見て私の人生が変わりました!」とか「この本を読んで世界が一変して見え始めた」とか「この音楽を聴いて生きる力が沸いてきました」などという言葉が溢れているけど、私にはそういったものは全て一瞬の超越であったり絶頂であったり神秘体験の域を超えることは無い一時的なものに過ぎなかった。
一瞬の高揚で自分は世界をこう捉えるべきだ、自分はこうあるべきだといったようなものは確かに見えるし一時的にそうなっていたとしても、気がつけば元に戻っている実際の自分の姿とは余りもギャップがありすぎる。
確かにすばらしいものは存在するし、それの存在は理解できる。でもそれは私には直接関係ないものなのだ。
そして、今ようやくにして、何かしらの圧倒的なものによって、一瞬で根本的に変わってしまうような事は私の中で起こらなかったし、これからも起こる事はないだろうと思うようになった。
それはひとつの諦念であると同時にひとつの決意でもある。とは言え、こういった感覚はどこか信仰に似ているように思う。
超越的な神秘体験によって信仰に引き入れられた人がその神秘体験の感覚が薄れてゆくにつれ自分の信仰に疑いを抱きだす。といったようなタイプのそれに似ているような気がする。
アウグスティヌスは、自分自身の信仰がぐらついたと感じた時は、心の中に疑問を感じながらも自ら信仰があるもののように振る舞い、信仰あるもののように日々祈っていれば、いつか信仰者である自分自身に気付くことができる。というような意味の事を言っていた。
以前、自転車で事故をして救急車で運ばれたことがあった。自転車で走っていて気付いた時には救急車の中に座っていたのだが、自分は全く覚えていないのに無意識の内に自転車をガードレールと一緒に鍵でロックし、所定の位置に鍵をしまっていた。
また先日話した「日本酒を飲むと自分を見失う」友人は酒を飲んで完全に記憶が途絶えているのにも関わらず、家に帰ってスーツをハンガーに掛けて風呂に入ってパジャマに着替えて寝ていたという。
そんな経験をしたりそんな話を聴いていると、習慣付けられた行動や思考というのは本当の意味で自分をドライブして作り変えてゆくものだとつくづく思う。パスカルの言うように習慣によって以前は全く無かった行動や思考が確実に根付いているのだ。
ということは、こうあるべき世界の捉え方と実際の自分の感じ方に、またこうあるべき自分と実際の自分の姿のギャップの深さに、埋める事も飛び越えることも出来ない溝を見出すとしても、アウグスティヌスの言うように、まるで自分がそうであるもののように振る舞い、まるで自分が世界をそうであるかのように捉え、まるでそういうものであるかのように思考してゆけば、やがてそれは習慣として自分に根付き、いつか自分が本当にそうなっていることに気付くかもしれない。
と、そんなことを今私は考えている。
そしてそんな考えもまた、習慣として根付けばいいと思う。