我慢そのものは徳性に直結しない

祇園祭に行くといつも不思議に思うのは、私は昔から人混みが嫌いで、それを避ける事は人生の中で何かを選択する場合の最も大事な基準のひとつであるくらいにそれを避けてきたのに、祇園祭の人混みだけは殆ど苦痛に感じない。ということである。

とは言いつつも、人の少ないマイナー山鉾のあたりは快適に感じるし、人の少ない年はラッキーだったとか、人が多すぎる場所は「うへ~」と思うけど、祇園祭の人混みそのものは避ける対象だと思う気にならないのである。

それは単純に程度や頻度の問題とか、人混みのイヤさ度合いと祇園祭自体の楽しさ度合いを天秤にかけて後者が勝っているというところもあるだろうけど、たぶん決してそれだけではない。

人が誰でもその人生の多くで遭遇する人混みについて「しかたがない」と受け入れて耐えているのと同じように、私も祇園祭の人混みを「しかたがない」と思って受け入れているけど、それでも私にとっては祇園祭の人混みと極力避けたいと思う種類の人混みについての捉え方は根本的に違うように思う。

往々にして人は他人に対して「何をどれほど我慢しているか」を基準にその徳性を見ようとすることがあり、それが高じて来ると、他人に対してではなく自分について「我慢する事そのもの」を立派な事や何かしらの証として誇りはじめるようになるものだ。

でもそれは時に他人には押し付けがましく理解しがたく映ることが多く、世のワーカーホリックのお父さん達が「お前たちのために私はこんなに我慢しているのに!」とどんなに主張したところで嫁子供の心に響かずむしろ逆効果であることが多い事からもそれがよく分かる。

多くの祇園祭に来ている人と同じように、私がその人混みに我慢できるのは、我慢するのがエラいからでも我慢するのが大人だからでも我慢するのが誰かのためになるからでもなく、単純に「楽しいから」なのだろうと思う。

人の生きる事につきものの理不尽さは計り知れず、避けるべくも無く我慢すべきことも数多い。しかし「我慢する事そのもの」は何かしらの目的を遂げるための手段や方法の一つに過ぎないはず。

手段を目的にすることがオタクの属性の一つであるというならば、私は我慢オタクなどという哀しげな者ではなく、もっと楽しげなオタクになりたいし、「何をどれだけ我慢するか」ではなく、「何をどれだけ行うか」そして「何をどれだけ行わないか」、もっと単純に言うなら「何をどれだけ愛するか」で自分の徳を高めていきたいものだと思うのであった。

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