本当に目的は必要か?
2013年8月18日
夏に外を歩いていると街路樹やら電柱やらのすぐ手の届くところにセミが止まっているところを見ることが多い。子供の頃は夏になると毎日網を持って出かけ、セミを見れば捕獲していたのだが、さすがにこのくらいのオッサンになると捕まえようとは思わない。
しかし、なぜオッサンになるとセミを捕まえる気にならないのか。と考えてみると。結局のところ「セミを捕まえてもしょうがない」というところになるのだろう。
とはいえ私がオッサンになって何も捕らなくなったわけではなく、海で魚やカニを捕ったり、川でムギツクやカマツカを捕ったりしているわけであるけど、結局それは食べるためであったり、飼うためであったりと何かしらの目的があるということになる。
だからといって子供の頃はセミを捕まえることになにかしらの意味があったのかといえば決してそうではない。クワガタやカブトムシとは違い飼う事もままならないので家に持って帰って満足して放すだけだ。
子供のころに捕ってもしょうがないセミを必死で捕っていたのは、ただ捕ることそのものを楽しんでいただけということになる。
考えてみれば、オッサンになると休みの日に遊んだり出かけたりする時にでも何かしらの目的やら意味を設定していることが殆どだ。
オッサンになると、「目的や意味のないものには価値と意義がない。」と反射的にみなすように条件付けされているのかもしれないけど、それでも子供の頃に楽しかったセミ捕りが価値がなかったとは今でも思えない。
押し付けがましい目的や意味とか価値や意義とかそんなものにがんじがらめにされながら生きているけど、せめて遊ぶときくらいはそんなことを考えたくないな。