生き残るためのメタ現実逃避

以前友人と釣りに行っている時に、友人が防波堤に座って釣りをしていると、一人で車でやってきた釣り人ではないオッサンが彼の釣っている様をしばらく眺めた後、「釣りは現実逃避なのか?」と彼に問うた事があるらしい。

その時は友人が防波堤の根元で、私が防波堤の一番先まで歩いていって釣りをしていて、私が餌がなくなったので友人のほうに戻っていると、友人はその見知らぬオッサンと話をしていたのだ。

私が戻るとそのオッサンは友人に挨拶して車で去っていったような記憶があるのだが、友人に「知ってる人?」と聞いてみると、冒頭のような質問をされてしばらく釣りとか趣味とか現実逃避について喋っていたらしい。

友人が結構真剣な顔をして竿を見つめていたのに引き換え、そのオッサンは妙に楽しそうな表情でその後ろに立っていたのを今でも覚えているような気がする。

その我々が釣りをしていた場所は、若狭湾の海沿いの国道から半島へ向かって険しい山や谷を越えて行き止まりの一本道をひたすら走ってやっとたどり着く、かなり辺鄙な場所だった。

そこは辺鄙な道の行き止まりに位置する場所なので、時々ドライブ中のカップルやら家族連れが迷い込んできたついでに休憩がてらに車を降りて景色を眺めて直ぐに去ってゆくことはあっても、飲み物の自動販売機も良い景色も、ドライブの人や観光客の目を引くものは何も無い、釣りをする人しか来ない場所である。

そう考えてみると、釣に全く興味の無いオッサンが一人でなんとなく来る理由なんか殆ど見当たらないのだが、今冷静に考えてみれば、そのオッサンがそんな質問を見ず知らずの友人にしたのは、その瞬間のオッサンにとって「現実逃避」は何らかの意味合いで考えたり検討したりするに値する大事な問題であり、絶対に人がいないだろうと思われる辺鄙なところに一人でやってきたのも実はそれなりに確固とした動機に基づいた行為だったのかもしれない。

もしかしたら、今になって思えば、友人は、見ず知らずのオッサンの問いに真剣に答え対話する事で、楽しそうにその場を去って行ったそのオッサンをはからずも救っていたのかもしれない。

人生の辛酸を嘗め尽くしたようなオッサンが、当時大学に入りたての生意気盛りの友人と会話したところで、何かしら有益な知見がもたらされたとは考えにくい、それでも、その見ず知らずの若者にいきなり根本的で哲学的な問いを発するギリシャの哲人みたいなオッサンの行為は、友人の答えというよりも、友人との会話そのものに意義があったのかもしれない。オッサンにとって問いかけられることではなく、問いかけることが産婆術的なものになったのだろうなぁ。

私は友人からその話を聞いて「なんやねんそのオッサンはw」と笑いつつも、帰りの車の中で二人でその問題についてかなり話した記憶があり、結局その時に我々がどういった答えを出したのかは全く覚えていないけど、それでも、そのオッサンの問いと印象だけは不思議とずっと私に付きまとって忘れることは無かった。

そのオッサンが現実逃避について話すことで現実逃避を果たして生き残ったとするならば、現実逃避の方法や手段について想像を巡らしたり計画することが現実逃避となるといったこともまた、生き残るための「メタ現実逃避」として有効なのかもしれない。

「現実逃避」について書いて。って言われたので書いてみました。

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