到達点である開始点は到達点を探す

当初は目標点に見えたはずの何かの区切りとか到達地点が、そこまで来てみるとまた別の何かへのスタート地点だったと言うことは良くある。
良くある、と言ったものの思い起こせば今までそんなことしかなかったような気もする。何らかの到達点はすべからく何らかの開始点でもあった。目標に達した時点で何かが終わった事なんか何一つとして無かったのではないか。
おそらく、人生だとか時の流れだとか人間一般に関わる殆どの事がそういったものだとみなされる要素を持っているのだろう。
ある地点ですべてが終わり、そこから先は何も無い到達地点というのは「死」以外に思いつかない。しかしその「死」ですらもある考え方や価値からすれば何らかのスタート地点としてみなされている。
生きる事が無限回廊のような終わりの無い連続したものであったとしても、その無限回廊の中での決定的な到達地点の欠落が苦の終了と楽の到来を約束しないものだとしても、生きる事自体の本質は何も変わらない。
ある見方からすれば人生や生きる事はそう見えるというだけの話である。言い方を変えれば真実らしきものがそのように見えた。とも言える。
それでも、暴力的で絶対的な終わりである死を何らかのスタート地点とみなすことがある種の救いの芽になるように、人生を生きる事の終わりの無さ自体が人生に対するある種の救いの発端になるのではないのだろうかと思えた時に、見えなかったけど実はそこにあった何かに一瞬手が触れた気がした。

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