精神的成長は都市伝説か?

「精神的成長は都市伝説」なる言葉にちょっと笑う。確かにそうかもしれない。うまいこと言うなぁ。
しかしそうなら同じ意味で「精神的転換も都市伝説」であろう。
同じ文脈で言えば、人間がおおよそ変化なり転換なりするとはとても思えない。
私の言う精神的成長とはある方向性を前提としたベクトル的なものではなく、ただ単に、人間が単純に変わる事、何らかの自分の意思やら努力やら加齢やら、外的やら内的要因によって精神的に変わる事を指している。
つまりは成長にしろ退化にしろ、人間は変わりうるか?という話やね。
もちろん、人間は精神的成長をするものやとされているし、それは一般的に子供から大人になるとも言う。当然それだけではないやろうけど。


精神的成長なる概念が余りに意味を成さないのはこの自分を見れば良くわかる。俺はこれだけ成長を望みつつもどれだけ成長したのだ?何も変わっていないと言っていいのではないか?と言う意味でだ。たぶん、おそらくほとんどの人間は指摘されるまでも無くこの事を実感しているだろう。
誰でもが等しく「三つ子の魂百まで」と思っている中、精神的成長に血肉を注ぐのは結局「精神的成長は都市伝説」と言うためなのかもしれない。悟りを開いた高僧の言う「別に悟らんでも良かった」と同じ事なのかもしれない。
それでも本当に悟った人なら、「悟りたいです!」と言う小僧に「悟りは都市伝説」とか「悟りは意味が無い」とか言って小僧の出鼻を挫いたりせずに「よーし坊主じゃあとりあえずやってみろ」と言うような気がする。悟りを目指す事や精神的成長を望む事が悪い事だとはどうしても思えないからだ。
あくまで気がするだけであるけど。
無意味である事を目指す事自体が無意味であるかはどうかはまた別である。自分がとことんまで目指してみて挫折する事に意味がある。自力を突き抜けた他力とはそういう事だろう。
ニーチェの言う「没落」とはあるいはそういう意味かもしれない。
パルカルは「理性はあらゆるものに屈する」と言った。しかしこれはパスカルが言うからこそ重みがあると思う。
ニーチェは「人間とは克服されねばならぬ或る者である」と言った。しかしこれはニーチェが言うからこそ重みがあると思う。
私のようなオムレツバカがどちらを語ったところで「はいはい、オムレツ作ってろ」という答えしか帰ってこないだろう。
しかしパスカルやニーチェがオムレツの事を語るよりも、このオムレツバカである私が語るほうが重みがあるのも又事実である。
そういうわけで私は今日も精神的成長と遥かなる悟り的なるものを目指して八正道的に日常を過ごし、本の感想を書き、ブログを更新するのであった。
そんな事は兎も角、考える切っ掛けとネタ提供してくれた某上海氏に感謝である。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。

PAGE TOP