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2014年7月10日

ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン -悪の陳腐さについての報告-』/ハンナ・アーレントは世界を救ったか

ずっと前から読みたかったハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン -悪の陳腐さについての報告-』をやっと読むことが出来た。

この本は、ナチス親衛隊の中佐として何百万人ものユダヤ人を強制収容所に送り込むにあたって最も大きな働きをしたとされるアドルフ・アイヒマンが、終戦後に身分を隠して落ち延びていたアルゼンチンでニュルンベルグ裁判よりずっと後の1960年にモサドに捕らえられイスラエルでかけられた裁判で明らかにされた、ナチスがヨーロッパ各地で行ったユダヤ人迫害の詳細な記録であり、かつ、彼女自身が、その裁判と、アイヒマン本人と、そしてナチスの行ったユダヤ人迫害に関連する諸々に対する考察が述べられた本である。

自身が亡命ユダヤ人でありながらもニュルンベルグ裁判を見ることの出来なかったハンナ・アーレントはアイヒマンが逮捕されたことを知り、記者としてこの裁判を傍聴して取材し、それを記事にして雑誌ザ・ニューヨーカーに連載したものがこの本の元でもある。

ナチスの絶滅収容所の運営に一番大きな役割を果たしたナチス親衛隊の大物中の大物アイヒマン。
ドイツの敗戦が濃厚になると忽然と姿を消してどこかに消えてしまったが、世界の国々を欺けても、イスラエルの諜報機関だけは欺けきれなかった!
モサドは10年以上探しに探し続け、ついに南米はアルゼンチンのブエノスアイレスでひっそりと身を隠して暮らしているのを見つけたのだ。
ユダヤ人の敵であるだけでなく全人類の敵である、まさに悪魔の化身、アドルフ・アイヒマン!

Ecce homo!見よこいつを!

いかにも悪そうなツラだッ!こいつはくせえッー!ゲロ以下のにおいがプンプンするぜーッ!!環境で悪人になっただと?ちがうねッ!!こいつは生まれついての悪だッ!
ニュルンベルグに代わってお仕置きだーッ!

という風な雰囲気に包まれて始まったアイヒマン裁判であったわけだけど、この本の中でハンナ・アーレントは、そもそものそんな前提からひっくり返している。

まず最初の時点でアルゼンチン政府は彼が戦犯であることを知りながら移民として受け入れたふしがあるし、当初は過去を隠していたアイヒマンも時が経つにつれ自分がナチスの将校であったことを誇りつつ堂々と語り、記者の取材まで受けて公にしながらアルゼンチンで暮らしていたし、そしてモサドが彼をイスラエルに運んだのは、彼がアルゼンチン人であったと仮定してもドイツ人であったと仮定しても、国際法的には拉致やら誘拐以外の何物でもない。

そして、アイヒマン自身が裁判の中で「上の命令に従っただけだ。」「従順であることは美徳だ。」と語っているように本人もナチスの中では決して実力者でも影響力があったわけでもなく、上官から命じられるまま可能な限りに効率的にユダヤ人を国外に運んでいただけで、ひたすら実務的な仕事を行っていただけであるという。
アイヒマンは極悪非道な悪魔のような存在でもなんでもなく、「出世と昇進にしか興味がなかった」「小心者」「愚かでは無いが無思想」「虚栄的で虚言的」「想像力の根本的な欠如」といった言葉で表されるような小物でしかないとハンナ・アーレントは断じている。

そして、ナチスがこれほどまでの多くのユダヤ人をゲットーに送り込み、そして絶滅収容所で虐殺することが出来たのは、アイヒマンやナチスが悪魔のように残忍で冷酷だっただけではなく、様々なユダヤ人の個人や組織が様々な理由でナチスの「ユダヤ人問題の解決」に助力し、運搬や収容所の運営に手を貸したからだということを彼女は追求しようとした。

ユダヤ人である彼女が当時のユダヤ人の態度を批判することは社会的な意味でも個人的な意味でも大きなリスクがあった。
それでも彼女があえてそれを口にしたのは、それでも世界に問わなければいけないことがあってこそだった。

アイヒマンがどれほどの悪人かと思いつつ裁判の傍聴を始めた彼女は、実際に始まった裁判でアイヒマンのあまりの小物ぶりに驚き、まさにこの本のサブタイトルの「悪の陳腐さについての報告」の通り、あれほどの犯罪行為に手を貸したアイヒマンが余りにも陳腐であった事こそを問題としたのだ。

とは言え彼女は決してアイヒマンに罪がないと言ってるのではない。
昔から戦争にジェノサイドはつきものであったけど、ナチスのように1国家が1つの民族を地球上から消し去ることを実際に意図して行動に移したことは無かったし、こんな陳腐でしかなかったアイヒマンが過去の歴史上類を見ないそんな犯罪を為しえる事が出来たのは、アイヒマン個人の無思想性と倫理的鈍感さといった陳腐さだけでなく、ユダヤ人を取り巻く社会的問題とユダヤ人自身の問題、更には毒ガスや大容量の列車と言った圧倒的なテクノロジーの進歩が綿密に組み合わさったもので、アイヒマン自身の残虐性なんかよりも、そういったこれからも起こるかもしれない国家的犯罪の原因こそをこの裁判で明らかにするべきであると言っている。

「ユダヤ人殺戮が…将来の犯罪のモデル、未来のジェノサイドのおそらく小規模な、全くとるに足らないような見本となる」ことを妨げることができるだろう。

それこそがハンナ・アーレントが世に問いたかったテーマなのだろう。
彼女はこの目的を達してこそこの裁判が国際法廷として意義を持つと述べている。

そして、彼女はアイヒマンやナチスだけの問題でなく、ユダヤ人含む人類全体の問題としてアイヒマン裁判を位置付けることで、ナチスを擁護しているとか、ユダヤ人を否定しているとか、非ユダヤ人だけでなく、様々なユダヤ人組織から猛烈な批判にあい、また実際に多くの友人を失ってしまった。

結局、彼女がこの本で指摘した「将来の犯罪のモデル、未来のジェノサイド」はナチスが行ったようなレベルでは今現在まで起こらなかった。
冷戦、核時代、民族対立と数多くの危機を人類はあと一歩のところで踏みとどまり、自滅することなく生き延びることができた。

それは、彼女の懸念が悲観的に過ぎたとか、推測が根本的に間違っていたというよりはむしろ、彼女が自分自身が批判の矢面に立って自分の思う真実と正義を述べたからこそ食い止めることができたのだ。ということができるかもしれない。

もう何度も書いていることだけど、タルコフスキーの「サクリファイス」や「ノスタルジア」で個人的に大きな犠牲を捧げることで誰にも知られることなく世界を救済する。というモチーフが出てくる。

同じように、ハンナ・アーレントがこの本を書くまでにこうむってきた大きな苦難だけでなく、彼女自身にとってあまりにも大きな個人的犠牲を捧げてまで述べたことで、世界は誰に知られることなく救われていたのではないか。
とそんなことを思った。

この本を巡る顛末がそのまま「ハンナ・アーレント」なる映画になってこの間まで京都でも上映されていたらしいけど、結局タイミングを逃して観にいけなかった。
あーレリゴーなんか見ずにとっとと行っておけば良かったー「アナ」じゃなくて「ハナ」にしとけばよかったー

いやしかし、ハンナ・アーレントこそ世界と人が「Let it go」であることを許さず、自身は「ありのまま」であろうとした人ですな。

と、これがこの本の感想の次のテーマでもある。
この本の感想はまだまだ長いので次回に続く…

2014年6月10日

佐々木中『切りとれ、あの祈る手を -〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』/ラーメンはアレやし蕎麦にしとくわー革命

『切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』を読んだ。

著者は1973年生まれの哲学者、佐々木中氏であるが、
以前読んだ『思想としての3・11 』に載っていた彼の文章に心を動かされて彼のほかの文章を読んでみたくなったのだった。

色々調べてみた結果、最初は彼の処女作である『夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル』を読もうと思ったのだが、
実物を見てその本の辞書のような分厚さとそのとテーマに尻込みしてしまい、では二番目の著書を...ということで選んだのがこの本である。

この本はタイトル、ではなくサブタイトルの「〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話」のとおり、〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの章で構成されていて、彼はこの本の中で「文学」こそ、つまり、本を読みテキストを読み込み、解釈し語り、そして書き換えてゆくことこそが「革命」だと語っている。

第2夜「ルター、文学者ゆえに革命家」で、カトリック教会から異端として破門されたマルティン・ルターが、聖書をひたすら読み込み、民衆に読めるようにドイツ語訳し、自身も大量の本を出したことは、ドイツで爆発的な出版物の増加を促して、宗教を改革しただけでなく、今まで聖職者層に独占されていた知を民衆に開いた圧倒的な革命であったと語り、
第3話「読め、母なる文盲の孤児よ ― ムハンマドとハディージャの革命」では、文盲でごく普通の常識人のオッサンでしかなかったムハンマドが妻ハディージャのバックアップで大天使ジブリールから強いられた神の啓示を「誦む」ことができて、その美しい言葉は「読まれるもの」を意味する「クルアーン」としてイスラム教の聖典となり、アラブをイスラム社会として統一する革命とになったという例を出し、
そして、第4話「われわれには見える ― 中世解釈者革命を超えて」では、11世紀末に再発見されたローマ法を綿密に読み込み、長い時間をかけて教会法として最編纂しなおしたことがいかに教皇や王よりも上位に位置する法の絶対性を生み出した革命となったのか、というルジャンドルなる人による「中世解釈者革命」なる解約を披露して、
必死にテキストを読み込み、必死にそれを語ることが、いかに革命となるのかということが語られる。

彼のいう「文学」は現代で言われるような「文学」の範囲だけを差すのではなく、哲学や宗教はもちろんの事、ありとあらゆる書かれたもの、例えば、マルティン・ルターを例にとれば彼の有名な『95ヶ条の論題』や彼の書いた法、彼の作った賛美歌まで、さらには歌やらダンスや壁画までを含めた広範囲のものであるとする。

本来テキストや本を読み込むことは、ルターやムハンマドがそうであったように、本当に読めてしまったら死んでしまうくらいの命がけの行為であるけど、 一方で「中世解釈者革命」から加速したテキストのデータベース化によって大量生産される類の、軽く簡単に手早く知識だけを得るために書かれたタイプの「情報」としての「テキスト」は読者に対する搾取でしかなく、そしてそんな「情報」は「文学」のふりをすることで「文学」の範囲を狭めて毀損してしまったと言いつつも、

知識や情報だけを求める本が氾濫し、命をかけたような本の読み方が廃れて「文学の危機」が現在叫ばれているけど、彼は人類が生まれた瞬間から壁画や踊りや歌といった文学は生まれ、ドストエフスキーが自分のサインを書ける人が全人口の10%もいない世界の中で本を書いていた事実や、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』が当時どれだけ売れず、第4部にいたっては40部刷って7部しか友人に配っていない事実を例に出して、間違いなく現代も文学が生き残っているし、将来的にも文学は革命を起こし続けるだろうとしてこの本は閉じている。

私はこの本を読んで、とにかく近年ないほど感動した。
ドストエフスキーとかニーチェとか出てくる例がやたらと琴線に引っかかりまくる上に、ルターやムハンマドの話もよかったし、そしてこうやってやたらと本を読んできたこととこれからも読み続けるであろう事を勇気付けられたようでもあった。

今まで私は色々な本を読みつつも、特定の本だけは、例えば『カラマーゾフの兄弟』や『ツァラトゥストラはこう言った』などは何度も何度も繰り返し読み返し、ベートーヴェンやバッハの特定の音楽を何度も何度も繰り返し聴いているけど、「これでちゃんと理解できた」とか「作者の言いたい事はこれ」だとか、もはやそんなレベルでは全く読んだり聴いたりいないし、それらの本を読んだり音楽を聴いたりすることは私が生きる事と完全に一体化しているとも言える。

しかしこれだけ読んでも「わかった」という感覚は全くせず、逆に読めば読むほど聴けば聴くほどその深遠の深さが判るくらいだ。その深遠はそれを生み出したドストエフスキーやニーチェやベートーヴェンやバッハそのものの深遠よりも深いのだろう。

「文学」の本質はその部分に、つまり「書いた本人以上のものがそのテキストに表現されている」というところにあるのだろうと思う。

文章を書くのが好きな人は、なんとなく書き始めた文章が書き終えれば自分が知らないままに自分以上のものが表現されているとしか思えない文章になっていたという経験があると思うけど、これは預言者ムハンマドが大天使ガブリエルに組み敷かれながら、神から預かった言葉を自分が何を言っているのか理解できないままに「誦んだ」のと本質的に同じであると思う。

この本では「テキストを書き換える」事が革命の本質であるといわれていた。
本気で本を読めば解釈せずにいられないし、本気で解釈すればそのテキストを書き換えずにはいられないし、その情熱こそが文学なのだ。
そして、何万何十万何百万の消えてゆくテキストの中で1つでも生き残ればそれは文学の勝利なのだとも言っている。

そう考えれば、例えば、憲法そのものを書き換えずにその解釈を意図的に広げて運用を変えるというのは、むしろ革命の機会を閉ざして執行者自身の権力の源を貶める道であるともいうことになってくる、
とか社会派みたいな事はとりあえずおいておいて...

私は今まで色々な本を読み、色々な音楽を聴いてきたけど、何か特定のものを読んだり聴いたりしたことを境にして、市民革命や産業革命やIT革命がそうであったように、世界と自らが一変してしまうような圧倒的に革命的な本や音楽をずっと求め続けていたような気がする。

しかし、それは神秘体験に依存してしまった宗教者が神秘主義に陥るような、薬物中毒者が一時の高揚を薬に求めるような、意識レベルを落とすことで世界と一体化する方向を目指したヒッピームーブメントの持っていた危うさを秘めていたものだし、私がいつの間にかそんなものを追い求めなくなっていたことも私の中でのひとつの小さな革命といえるかもしれない。

日常を生きながらも特定の本を繰り返し読み、特定の音楽を繰り返し聴き、そしてひたすら考え解釈し私の中にあって私を導き律する法たるテキストを更新し続けることで、「中世解釈者革命」のようにジワジワとゆっくりと権力や価値や方法が転換し、あるいは転覆して私の中で革命が進んでいた。といえるような気がする。
沢山の本を読み沢山の音楽を聴いたのは、そういった何度も繰り返し読んだり聴いたりするに値するものを見つけるためだったとも言えるかもしれない。

そう考えれば、私も昔と比べれば革命的と言って良いほど変わってしまったところが一つある。

それはフランス革命の文学的価値が「パンがなければケーキを食べればいいのに」といった架空の文学的テキストを書き換えることであったことは間違いないように、
私の中で若い頃に自らを圧倒的な権力でもって統べていた「幾ら食べても太らない」「から揚げ定食、コッテリ大の堅麺でネギ多い目」「カレーはのどごしを味わうもの」「ポテトチップは前菜」といった法が、
「なぜか食べてないのに太ってくる(ーー;)」「ラーメンはアレやし蕎麦にしとくわー」「カレーは一日一杯」「デザートは豆大福♪」というテキストに書き換わっていたことを革命と言わずして何と言おうや?

うん。それはただ単にオッサンになっただけやな。文学も革命もニーチェもドストエフスキーも何の関係もないわー

 

2014年5月30日

高橋祥友『群発自殺―流行を防ぎ、模倣を止める』/林公一『擬態うつ病』/情報化した文学は恐ろしい。

最近読んだ新書の中に、高橋祥友『群発自殺―流行を防ぎ、模倣を止める』と林公一『擬態うつ病』なるものがある。

 

そもそももこの2冊を読もうと思ったのは、『群発自殺』が『若きウェルテルの悩み』の創作時期あたりのゲーテの人生をテーマにした、何気に面白かった映画「ゲーテの恋」を見て、18世紀の発表当時に『若きウェルテルの悩み』の恋に敗れ自殺する主人公を模倣した青年の自殺が多発した「ウェルテル効果」に関する本が読みたくなったからで、
『擬態うつ病』は古本屋で見かけた時にこの著者がネット上で「まさかとは思いますが、この「~」とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか。」のフレーズで有名な、Dr林やないですかーということで手に取ったのだった。

この『擬態うつ病』は本来なら薬が劇的に効く脳の器質的な問題であるはずの「うつ病」が診断名としてソフトに聞こえたり世間に浸透しすることで、うつ病ではないはずの「単なる甘え」から「適応障害」「統合失調症」に至る人までが「うつ病」と診断されることで、まったく薬が効かないだけでなく、うつ病の人も偏見に晒されてちゃんとした治療を受けられなくなる可能性を示唆したものであった。

この本は2001年に出版されたもので、この本の内容は当時の状況を考え合わせた起こりつつある事としてのほとんど未来予測に近いような話であったけど、2014年の現段階でまさにDr林の言う通りの状況になっていてびっくりですよー

私はこのDr林の「Dr林のこころと脳の相談室」が更新されるたびにチェックしてみているほどなのだが、今見てみたら403エラーで表示されなかった。

まままさかとは思いますが、「Dr林のこころと脳の相談室」とは私の想像上の存在にすぎなかったのか!?

うん。インターネット上に公開されたどこぞのwebサーバーにあるサイトを現実の存在ととらえるか想像上の存在とらえるかってのはなかなか難しい問題ですなー

でもう一冊の『群発自殺』の内容は『群発自殺―流行を防ぎ、模倣を止める』のタイトルの通り、自殺者の報道やメディアで扱われた自殺が他の自殺を誘発したり、自殺の名所と呼ばれる場所で多くの自殺が行われるといったものや、特定の宗教や思想や家族集団内で行われる集団自殺などの、時間的にも場所的にも近接した複数の自殺について具体例を挙げたり論じたりして、メディアの報道の姿勢や我々の対処の仕方でそういった「群発自殺」を防ごうというものであった。
1998年に出版されたちょっと古い本なので「岡田有希子」とか「高島平団地」とか懐かしいフレーズも満載だ。

そういえば、なぜかこの本では全く言及されずスルーされている1993年に出版された『完全自殺マニュアル』が内容もさることながら本を参考に、あるいは本を携えて自殺した若者を何人も生み出したことでマスコミで大きく取り上げられて有害図書指定されたことがあった。

そんな『完全自殺マニュアル』を巡る二年間の騒動と読者からの手紙をまとめた『ぼくたちの完全自殺マニュアル』を読めば、否定的なことを言う人のほとんどがそもそも本を読んでない人ばかりで、真面目に読んだ人の殆どは『完全自殺マニュアル』を肯定的に捉えており「逆にいつでも死ねるのだと思うともうちょっと生きようという気になった」という人がとても多いのが良くわかる。

以前硫化水素とか練炭とかによる自殺がやたらと連鎖して報道されていた時期があったけど、私は何かしらの自殺の流行に乗った人は、たまたま手近な手段としてそれを選択しただけで、流行が無くても多かれ早かれ他の手段で実行しただけなんじゃないかと思っていた。

しかしこの『群発自殺』 を読んでその見方は結構変わった。群発自殺の頻発した後にも自殺が減らないデータを見れば、流行によって引き起こされる「群発自殺」が自殺予備軍を後押ししたのではなく、本来自殺することの無かった人を自殺させたことがかなりの確実性を持って推測できるし、本来なら症状が回復すればちゃんと生きていける、うつ病や統合失調症や洗脳状態の人の群発自殺は適切な対処で防ぐことができるのだと言うことが良くわかった。

しかし一方で、この本は『群発自殺』に関する本であるから当然と言えば当然なのかもしれないが、自殺を引き起こす精神的な疾患については予備知識としては述べられていても、自殺そのものを直接的に考えるという方向性は全く無い。

アルベール・カミュは『シーシューポスの神話』の中で

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。
自殺ということだ。
人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。
それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。
そんなものは遊戯であり、先ずこの根本問題に答えなければならない。

と言いっぱなしで「お前も答えてないやないかい~」と突っ込み待ちをしているわけであるけど、彼はそんな渾身のボケを放ちながらもそれでも一方で「自殺」の問題を「人生が生きるに値するか否か」という哲学的な問いに言い換えたわけだ。

この「自殺」に関する問題、カミュ風に言い換えて「人生が生きるに値するか否か」を実に様々な人が問い続けてきたわけであるけど、どんな本を読もうがどんな人に聞こうが、結局は自分の問題については語ることができても他人の問題に関しては「人それぞれなので自分で考える」ということしか言っていないように思う。
考えてみれば、それは答えとして余りにもあほらしいし、それはそもそも答えなのか?というレベルですな。

名著として君臨している、フランクルの『夜と霧』でさえも極端にムリヤリ要約してかいつまんで言ってしまえば、何をもって人が極限状態で生きがいとなる生きる力を得られるかは「人による」となるし、じゃぁそれはどうやって見つければいいのかと言えば、「自分で考えろ」となってしまう。

この本を読む前に読んだ「如何に情報が人を蝕むか」「情報ではなく文学が革命を起こすのだ」といった内容の佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』にとても感動したのだが、それにそって言えば、「自殺についての問題」つまり「人生が生きるに値するか否か」は「情報」ではなく「文学」で答えるべきなのだ。

『夜と霧』や『シーシューポスの神話』を読んで心を打たれるのは、それが情報として書かれたのではなく、「文学」として書かれたからだし、読むほうもそれを単なる情報としてではなく、文学として読むからなのである。

フランクルやカミュといった心理学者だとか文学者とか哲学者の例を出すまでも無く、
たとえば、男性諸君なら誰でもが経験するであろう、なぜかプリプリと怒っている女性に当惑してオロオロしながら「貴方はなぜ怒っているのか?」と恐々問うた時の答えが「自分の胸に手を当てて考えなさい!」であることが多く、さらにびくびくしながら発せられる「どうすればその怒りを静めることが出来るのか?」に対する答えの殆どが「そんなことは自分で考えなさいよ!ふんっ!」とどちらも「人生が生きるに値するか否か」と全く同じ回答になることを考えてみれば、まさに人生で人が本当に問い求められているのは「情報」ではなく「文学」であるというのが良く判りますな。

っと、話が逸れそうになったので元に戻すと、群発自殺は本来「人生が生きるに値するか否か」といった「文学」の問題の範疇にあったものが「情報」として伝わることで本来その文学の影響下に無かった人を巻き込んで「群発自殺」を引き起こしてしまうと見ることが出来るわけであるし、「擬態うつ病」も「うつ病」なる状況が情報として広まることで、「うつ病」ではない別の文学的な問題を生きていた人を、全く別の架空のストーリーに引き入れてしまうことでさまざまな問題が起こってくると言い換えることができるわけである。

元が革命を引き起こすほどのエネルギーを秘めた「文学」であるだけにそれを情報として扱う場合の破壊力と危険性もとてつもないということがよーくわかったような気がする。

いやいや文学と情報って恐ろしいですねーと文学部出身で情報産業に関わる私が自分の事を棚に上げて思ったのであった。

2014年1月20日

『グイン・サーガ』の新刊『パロの暗黒 』を読む/「物語」の怖さについて

著者が死去することで130巻で途絶えてしまっていた長大なシリーズである『グイン・サーガ』が最近別の著者によって再開された。

『グイン・サーガ』は当時はそんな区分けすらなかったけど、今風のジャンルで言えば「ヒロイックファンタジー+ライトノベル」というところで、まだ私が高校に入る前にはじめて読んでから、読む本の趣味やら傾向が全く変わってしまっても新刊が出るたびに買ってずっと読み続けていた。

この『グイン・サーガ』なる物語は、私にとって子供の頃から五年前までずっと、自分の住む世界とは並行に存在する世界であり、そしてその平行世界の国々やそこに住まう人々に対して、ある意味で現実の世界以上に親近感を抱き続けていたのだ。

そして五年前に作者である栗本薫の死去によってストーリーが中途半端なままに中断されその世界の時間が止まり、もう続きを読むことは出来ないのかと結構ショックだった。

ようやく最近になってもう読み返すことも無いだろうということで家にあった『グイン・サーガ』を全て処分して、どことなく人生のほとんどの時間を囚われていた世界から開放されたような気分でもあったのだ。

著者である栗本薫は『グイン・サーガ』なる物語は、著者の私自身の意図と関係なく著者を経由して自立的に物語られてゆくもので、私自身も私の書い た物語の読者であり、私だけの物語ではない。というような意味の事を常々言っていたし、自分の死後には誰かに続きを書いて欲しいと言うことを言っていたけど、それでも『グイン・サーガ』の新刊が栗本薫ではない別の著者により書き続けられてゆくことを知って、なんとなく死者が蘇ってきたような不吉で不謹慎な感覚がしたのだ。

しかし、いくらそんな嫌な感覚を抱いたところで、実際に新刊を目にすればそんな感覚は全て吹っ飛んで読まずにはいられなかったし、一気読みして、今までのブランクなど無かったように物語世界に没入した。とにかく新しい『グインサーガ』と触れ合えるだけで嬉しかった。もう終わった、と思っていたものが実際に目の前に現れると人間の心も感覚もいとも簡単に昔に戻ってしまうのだ。

しかし一方でこの『グイン・サーガー』の新刊を実際読んで「物語」の持つ怖さのようなものをひしひしと感じた。開放されたと思っていた世界に再び囚われるような感覚だ。

「著作」は「著者」と独立しているということをよく言うけど、『グイン・サーガ』という物語が「栗本薫」という宿主から這い出て、新たな「五代ゆう」なる宿主を選んだ。というような感覚がする。そして新たな宿主を得た「物語」は読者も著者も容赦せずその世界に取り込んでゆくのだ。

そう、人は「世界」ではなくその「物語」の方にこそ囚われて取り込まれるのだ。

私とほとんど同い年でほとんど同じ時期に『グイン・サーガー』を読み始めたの五代ゆう氏のあとがきを読んで、専業作家である彼女にとっての『グイン・サーガー』の続編を書くことの重みをひしひしと感じたし、それでも彼女がその世界に取り込まれまいとする決意のようなものに感動した。

しかし、いくらこの『グイン・サーガ』の世界が楽しくても、それでも、やっぱり私の中で何かが終わっていることにも気付いた。新しい新刊を読みながら、なぜか過去の物語を読んでいるような気がずっとしていた。

過去を振り返るような感覚で新刊を読むというのも不思議だけど、昔を懐かしむように、昔の歌を聴くように、これからも『グインサーガー』の新刊を読んでゆこう。

  

2014年1月15日

松本仁一『カラシニコフ』『カラシニコフⅡ』/カラシニコフは失敗国家でいかに利用されるか

昨日ミハイル・カラシニコフ氏の死去をきっかけに「カラシニコフ」関係の本を数冊読んで、その中から「カラシニコフ氏」本人に関する本の一冊についてい書いたけど、今日は人としての「カラシニコフ」ではなく、銃としての「カラシニコフ」をテーマにした本について書く。

朝日新聞で連載されていた「カラシニコフ」を単行本化した、この松本仁一『カラシニコフ』『カラシニコフⅡ』の2冊である。

この本はアフリカ、中東、南米などの無政府状態になったり無政府状態になりつつあるいわゆる「失敗国家」の周辺地域で「カラシニコフ」がどのように流入し、どのように使われ、どのような悲劇が引き起こされているか。という事についてのレポートである。

「失敗国家」を見分ける簡単な基準として、「警察官や兵士の給料をきちんと払えていない国」と「教師の給料をきちんと払っていない国」の2つがあげられるらしい。

つまりは「治安」と「教育」が国が国家として成り立つために最低限死守すべきラインということになり、この本の中で出てくる話はその「治安」と「教育」のいずれか、或いは両方が崩壊した地域での話となる。

どちらの本にもAKを握り締める少年が表紙になっているように、この本には子どもの頃から武装組織の兵士として生きざるを得なかった、映画「ブラックホークダウン」でお馴染みのモガディッシュの少年兵や、自衛のために銃の扱いを習得しなければいけない南米や中東の少年などいわゆる「少年兵」や「少女兵」の話が沢山掲載されている。

少年兵や少女兵は子どもの頃から銃を持たされて日々戦闘行為や略奪行為に明け暮れるわけで、少年少女兵の存在そのものがその地域の治安と教育の崩壊を示しているということになるのだろう。

この本では国家の指導部が自分たちの利権争いにのみ始終して延々と続く内戦を続け「国」としての体裁に全く気をかけず「失敗国家」となるアフリカにありがちな事例だけでなく、NATO軍が革命軍を支援して独裁政権を倒した後に今までは独裁政府の武力によって保たれていた治安が当然崩壊して治安が劇的に悪化する中東や南米の事例もあり、治安と教育が崩壊するとどういうことが起こるのか、そして国家が崩壊するとはどういうことかが良くわかる。

読んでいるだけでどんよりしてくる事例ばかりのなかで、宗主国の強制した国境線を度外視して、PKO軍にも頼らず地域に根付いた部族制度を元に治安と教育を回復した「ソマリランド」のすばらしい事例が救いの光明のように見える。

「カラシニコフ」をキーワードに読み始めたけど、マクロな視点では国家とか平和とか国際支援とか、マクロなところでは人間の欲望とか暴力とかについて中々考えさせられる本であった。

そういえば、今でこそテロのイメージのある「カラシニコフ」やけど、昔は資本主義からの独立や開放といった共産主義革命のイメージとして捉えられてたこともある。

昨日紹介した『カラシニコフ自伝 世界一有名な銃を創った男』といいこの本といい、朝日新聞社はやたらカラシニコフに関する本が多いような気がするのは、もしかしてそういうわけかもしれないことはないかもしれないことはないかもしれない?

  

2014年1月14日

ミハイル・カラシニコフとソ連/カラシニコフ自伝 世界一有名な銃を創った男

この年末年始で色々な方が亡くなったけど、結構ビックリした割りに世間的には殆ど注目されていない人の一人に、史上もっとも大量に製造され拡散している小銃である「AK-47」の設計者である「ミハイル・カラシニコフ」氏がいる。

 

彼が設計し、彼の名が冠せられたAK-47(Avtomat Kalashnikova-47 、47年式カラシニコフ突撃銃)は第二次大戦での対ドイツの自動小銃として着想され、大戦後にソ連に正式採用された後は冷戦当時の東側諸国のシンボル的な銃器となり、冷戦構造が終結して東側諸国で密造されたものが大量に流出し始めた後は、メンテナンスフリーで砂漠からジャングルから極寒地域までどんな環境でも問題なく動作するシンプルで誤動作が少ない素晴らしい性能からゲリラやテロリスト達がこぞって使い、今や「小さな大量破壊兵器」「世界で最も多く人を殺した兵器」「貧者の兵器」など呼ばれることが多い。

ミリタリー好きにとっては「カラシニコフ」とか「AK」なる単語は一つの頂点とも言うべき言葉であるけど、殆どの人は「カラシニコフ」という名前をなんとなく聞いたことがあるような気がするくらいのものだろう。

時々国際問題とか内戦とか民族対立などといった文脈でこの単語が登場するくらいだ。

私もミリターリー好きの端くれとしてこのAK-47を模したBB弾を発射する電動ガンを持っている。(でもスリングだけは実銃用の本物だぞ!)

彼のデザインしたAK-47がいかに素晴らしい銃であるかを詳細に知っている人でも、冷戦時代はその存在そのものが国家機密であったカラシニコフその人について、いかなる人生を歩んできたのかそれほど知っている人はいないのではないだろうか?

ということで、私も彼のことをほとんど知らなかったので彼の死を機に、彼について書かれた本を数冊読んでみた。

「カラシニコフ」については色々な切り口で沢山の本が出ているが、彼個人の一生について知るなら、『カラシニコフ自伝 世界一有名な銃を創った男』が一番良かったような気がする。

これはカラシニコフ氏の娘の友人による氏へのインタビューを「自伝」形式に編集したもので、彼がソ連時代に語っていたという対外的でオフィシャルな作られた経歴ではなく、彼自身がソ連時代には誰にも語ることが出来なかった話が多く掲載されており、彼が少年時代に革命によってシベリアに強制移住させられた少年期や脱走して銃器設計者となる顛末の話などはこの本ではじめて知った。

彼が少年時代にあれほどレーニンに辛酸をなめさせられたにも拘らず、彼がどれほど祖国とレーニンとマルクス・レーニン主義を愛し自らを祖国に捧げてきたかのを誇りしにしているのが印象的だった。

祖国の英雄となり、数多くの勲章を授けられた彼であるけど、彼は自分の作った銃がどれほどの悲劇を生み出したのか知りつつ苦悩していた。

そしてこの本で彼は祖国と家族と平和と愛すると同じように「銃」を愛し、故郷と家族と自身の少年時代を無茶苦茶にされながらも、レーニンと共産主義を敬愛するような、一見矛盾する感覚が彼の中に同居しているのがとてもよく分かったし、まさにそこにこそ彼の人間身がとても表れているように思えた。

カラシニコフ氏は様々な矛盾を抱えつつ、崇高な目標を掲げて平和を目指しながらも結局はうまくいかずに崩壊してしまった「ソ連」をまさにその生き様で表現しているような人物であるような気がするであった。

  

2013年11月19日

新覚羅顕琦『清朝の王女に生れて』/復讐しない岩窟王/自らを守る「ポジティブシンキング」

新覚羅顕琦『清朝の王女に生れて 日中のはざまで』を読んだ。

この本は清朝10代目の親王である愛新覚羅善耆が辛亥革命によって旅順に逃れていたときに生まれた末娘である新覚羅顕琦なる人物による自伝である。

彼女は子ども時代は旅順で、大学は留学先の学習院で日本式の教育を受けていたということで日本にとても親近感を抱いており、この本も日本語で書かれた。

大学を日本で過ごしていた彼女は日中戦争により帰国して中国で暮らすようになる。兄の子どもの面倒を見ながら、翻訳や家財の売却そして食堂経営などで生きてゆき没落貴族階級の書家と結婚するが、太平洋戦争終結後に親日派でかつ王族であった彼女はある日突然逮捕され、6年間の拘留の後に裁判なしで刑が確定して15年間投獄される。

獄中で最初の夫とは別れるが、出獄後に農村労働者として働いていた時に二度目の結婚をすることになる。

と、王族として生まれ、日本式の先進教育を受け、文化や芸術や学問に何よりも価値を置いて愛していた特権階級の彼女が、ある日突然わけもわからず逮捕されて投獄されるわけであるけど、

ここからが私がこの本を読もうと思った読みどころの、彼女が獄中の21年間に渡り中国共産党による思想改造を受け、刑期を終えて出獄し過酷な農村労働者として社会に出て働く頃には、自らの生まれや育ちを恥じて否定し、逮捕されるまでにもっていた価値や教養は間違ったもので、日々生活に明け暮れる労働者の偉大さと詩歌にはない過酷な自然の美しさを知るという風になってしまう様のエグさと、ヨーロッパの革命のように権力や既得権益を持つものからそれを奪った後に処刑するのではなく、殺さずに思想改造してしまう発想がすごい。

と言うことだったのだが、紹介されていた時に思っていたよりもエグくなかった。

たしかに王族だった才女がある日突然逮捕され、思想犯として21年間投獄されながら思想改造を受け、刑期を終えて社会に出ると、自ら望んで最下層の農村労働者として働き、村の爺さんと結婚して労働と生活を賛美する。

と書くととてもエグく感じるのだが、自意識がハッキリしていて自分を持った意志の強い、どこかトットちゃんを思わせるキャラクターのせいか、むしろ彼女がこれだけの状況の中でこれほどまでに思想改造から自分の価値を守り、自分を保つことが出来たのかという事の方に驚いた。

とてつもなく悲惨な状況なのに本の中からは殆ど悲壮感が伝わってこないところも衝撃的である。

彼女がずっと彼女のままでいられたのはとにかく目の前にある問題に対して、兄の子どもたちを養うためであっても、獄中の中のどうでも良さそうな仕事であっても、自らの知恵と気力をもてる限り傾けてベストを尽くして取り組んでいたからなのだなぁとつくづく感じた。

今でこそ「ポジティブシンキング」なんてものは自己啓発セミナー系の胡散臭い考え方のひとつのようにみなされているけど、彼女の前向きな考え方や生き方を見ていると内に静かに燃える「ポジティブシンキング」が如何に色々な方向から自分を守るかというのがわかったような気がする。

状況は殆どモンテ・クリスト伯なのに、出てきても誰に対しても復讐しないところが素晴らしいですな。

  

2013年11月18日

デニス・プレガー『ユダヤ人はなぜ迫害されたか』/ユダヤ的知性とは二律背反から生まれる知性か?

デニス・プレガー『ユダヤ人はなぜ迫害されたか』を読んだ。

この本は「ユダヤ人」が太古の昔から現代に至るまで迫害され続けている一番の根本原因は非ユダヤ教徒によるユダヤ教そのものに対する反発と憎悪であり、一般的に理解されているような、キリストを殺したから、金持ちだから、優秀だから、スケープゴートが必要だったから、といった理由ではないことを、様々な時代や国やイデオロギーや思想によって為された「ユダヤ人迫害」の実例を元に考察するものであった。

この「ユダヤ人迫害」は文化や宗教の基盤が全く違う日本人にとって感覚として良く判らないもののひとつである。

その「ユダヤ人迫害」について書かれた本で、以前読んだ内田樹『私家版・ユダヤ文化論』は、迫害されるユダヤ人とは何者かというテーマを迫害する側の圧倒的な不条理としてではなく、<「迫害される理由」という政治的に正しくない志向>で論じた本であった。

この本の中で、罪の意識から自責の念が生じるアーリア的な感覚とは逆の、先天的に自分に先立つ自責の念から罪の意識が生じる「遅れて到達した」感がユダヤ教的思考である。というところがとても印象的だったけど、この『ユダヤ人はなぜ迫害されたか』ではユダヤ教の教義や内容についてもそこそこ説明されており、その内田先生のいう「遅れて到達した」感が、「棄民」や「試練」と言った文脈で捉えられるようなユダヤ教徒としてのアイデンティティーの一端としておぼろげに理解できたように思う。

そして、ユダヤ人の特徴のひとつとして優秀な人材を輩出する割合が圧倒的に高いというところがあるけど、それについても先日、大澤武男『ユダヤ人の教養:グローバリズム教育の三千年』でユダヤ教は紀元数世紀レベルの昔から整備されている、シナゴーグでのユダヤ教徒の子女の全てに対する教育制度によるものと、実に執拗で徹底的な迫害による様々な制約から生き残るための知恵やコネクションもユダヤ人の優秀さを育てた1つであるという趣旨の本を読んだ。

この本ではユダヤ人に対する迫害の歴史の具体例とそれに対する生き残り策に触れつつも、迫害の理由そのものについては書かれていなかったけど、『ユダヤ人はなぜ迫害されたか』は真正面からユダヤ教のどこに非ユダヤ教徒が反発を抱いたのかと言うところが論じてあった。

ユダヤ教は唯一神を設定し、その紙から選ばれた民がその律法に沿って生きるというスタンスなので、唯一神を認めるならその他のものは否定されるというゼロサムゲーム的な論理構造を持っており、ユダヤ教徒が自らの宗教に沿って真面目に生きれば生きるだけ、非ユダヤ教徒にとって自分達が否定されているように感じるというところが、ユダヤ人迫害の根本的な原因であるという。

確かにそういわれると、古代ギリシャから、ローマ、キリスト教やイスラム教国家、市民革命後のヨーロッパから共産主義や社会主義国家、そしてファシズム政権に至るまで、国家意識や国民の帰属意識といったものを強く国もつ国であればあるほど、市民の意識が高ければ高いほど、独自の強固な価値基盤を持つユダヤ教徒が迫害されたのが良くわかる。

絶対的に対立する複数のモノの中で1つのものを選ぶことが、残りのものを否定する行為でもあるということは、論理的には正しいのだろうけど、それは非ユダヤ教徒の論理でしかない。

そんな論理の帰結として自らを否定するものを否定して迫害するという判りやすい方法を非ユダヤ教徒は取ったわけであるけど、ユダヤ教の側からすれば、自らの価値と対立する外部世界、しかも自らを過酷に迫害する外部世界を受け入れつつ生き残ってきたわけで、対立する1つのものを選ぶともう1つを否定することになるという、非ユダヤ教徒のような単純な論理だけで自らの世界と外部世界の関係をを捉えて考えることなどとても出来なかっただろうし、そんな論理を超えた現実を生き抜いてきたわけである。

昔から「自己矛盾」とか「二律背反」や「テーゼとアンチテーゼ」などというものは哲学だけでなく、『風の歌を聴け』から『カラマーゾフの兄弟』に至るまで文学的な主要テーマの1つでもあり、真摯に自己や世界を見つめて日常生活を生きていれば誰でもが突き当たる大きな問題の1つでもある。

そして「ユダヤ教と非ユダヤ教の共存」も見方や言い方を変えれば同じように「自己矛盾」「二律背反」「テーゼとアンチテーゼ」などといった言葉で語られるのと同じ問題のひとつでもある。

この問題に対しての非ユダヤ教側による回答は歴史的に見れば相手側の否定という場合が殆どであったということになるけど、圧倒的マイノリティーであったユダヤ教側からすればこの問題はまさに自らの存在に関わる深刻な問題であっただろう。

ユダヤ人が民族的に創造的な知的レベルが高いと言わざるを得ないのは、様々に述べられるユダヤ教の教育制度であったり「遅れて到達した」感であったりはもちろんあるだろうけど、それに加えてこの自らのアイデンティティーと密接に関わる部分で「自己矛盾」「二律背反」「テーゼとアンチテーゼ」といったことをひたすら自らのテーマとして考え感じ抜いて来たと言う事もあるのではないだろうか。

ちょっとエラそうに言えば、本当の知性というものは何かしらを論理的に理解したり説明することよりもむしろ、論理を超えているものをいかに捉えていかに理解するかの方にこそ発揮されるように思うし、

そして、さらにエラそうにいえば、自己の存在の根本に近いところで自己矛盾に悩みぬき考え抜いた人ほど、そんな論理では説明できないことを捉えて理解する知性を持っているように経験的に思えるのだ。

「他に神が存在することを否定しない一神教」と「唯一神を認める多神教」とわざわざ対決図式で比較させるから問題が起こるのだ。

そして人類は、こういった一見相容れない「~と~の共存」と言ったような自己矛盾を克服してゆくことこで、知性的に進歩したと言えるのかもしれない。

   

 

2013年11月12日

信仰者は電化マイルスの夢を見るか

中山康樹『マイルスに訊け!』を読んだ。

この本は「またお前か?」と言われるほどに彼の生涯にわたってマイルス・デイヴィスにインタビューし続け、彼の言葉を日本に紹介し続けた著者による「帝王マイルス・デイヴィス」の語録集のようなものである。

マイルス・デイヴィスは私の一番好きな音楽家の一人なので、この語録を一言一言読むたびに彼の格好良さが伝わってきてたまりませんな。

彼の良さは、「kind of blue」や「Round About Midnight」や「Milestones」といった、いわゆる「モダンジャズ的名盤」にのみあるわけではない。

 

こういうのから聴くからマイルスはツマランとなるのだ。

彼の格好良さはこの「You're under arrest」のジャケット写真に現れていると思うw

そしてこのアルバムはマイルスのジャケット写真の格好良さwだけじゃなくって、彼がマイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーの曲を如何にミュートトランペットで「唄う」かが良く判る、マイルス初心者にもお勧めの一枚ですぞ。

マイルス・デイヴィスは一応「ジャズ」のくくりに入れられるだろうけど、彼自身は自分をジャズの枠だけでは考えていなかった。

彼はポップだろうがロックだろうがあらゆる音楽を取り入れながらずっと進化続け、常に最先端であり前衛であり続けた。そのあたりは草間彌生とよく似ているけど、彼の特筆すべき点は多くの才能ある若者を数多く育ててきたところにあるだろうと思う。

帝王と呼ばれるマイルスの周りには追従者や崇拝者が大量に群がってきたけど、マイルスはそんな彼らの世界に安住せず、彼らの頭越しに遥遠くの世界と数多くの人を眺め、彼らの頭越しに自分を知らない世界と人々に向かって音楽を放ってきた。

音楽にしろ文学にしろ絵画にしろ、私はどちらかと言うと内向的なものが好きなので、私は彼の内向的なミュートトランペットの音が、例えば「Round about midnight」の「bye bye blackbird」のようなものが好きだけど、彼の唄う内向的なミュートトランペットが決してただ甘ったるいだけのセンチメンタリズムに堕ちることも、彼の理解者に媚びることもなかったのは、彼がそんな視点を持ち続けて来たからであるように思う。

彼が真に偉大だったのは、彼がどこかの時点で最も偉大なジャズトランペッターだったからではなく、彼自身が自身に与えられる偉大さを常に否定し続けていたからであるように思う。

この本の中にこんな一節があった。

練習ってやつは、祈りを捧げるようなものだ。

一週間に一回とか一ヶ月に一回というわけにはいかない。

逆に言えば、祈りというものは練習のようなものでもあることになる。

祈りが練習であるならば、練習としての祈りの本番にあたるものはなんだ?

私には何か対して祈る習慣がないのでよくわからないけど、少なくともマイルスが音楽に対して信仰者のようであったことは良くわかる。

草間彌生にもっとも顕著に現れている「同じ事を反復しているのに常に変わり続けている」という性質は芸術家だけでなく信仰者の特質でもあるのかもしれない。

そして、この本を読んで今まで余り聞かなかったいわゆる「電化マイルス」を聴いてみたくなったのであった。

  

 

2013年10月29日

半島を出よ/内なる異端者の存在を承認するということ

村上龍つながりということで、『半島を出よ』を読んだ。

 

分厚い文庫本2巻構成なのだが、これも一気に最後は完全に徹夜して数日で一度に読みきったくらいに面白かった。

ストーリは財政や経済が破綻し国際的に孤立した日本に対して、対米親和路線をとり始めていた北朝鮮が、反米意識を保持する保守派の部隊を粛清する意図もこめて福岡に送り、九州を占領して日本から独立させる計画を立てる。

旅行者に偽装した武装した9人の北朝鮮の特殊部隊が試合中の福岡の野球場を占拠して亡命者を名乗り、、その二時間後に250名以上の兵士を乗せた輸送機が到着して福岡はこの部隊に占領されるが、政府はこの状況に何の手も打てず、アメリカも安全保障条約の適応範囲だとみなし、福岡を占領した遠征部隊は県と市と共同で当地を行うことを宣言する。

遠征軍の別同部隊が東京に破壊活動のために潜入するというデマから政府が福岡を封鎖したことで市民感情が遠征軍に傾き、遠征軍が着々と支配を進めるところに、北朝鮮から12万人を乗せた船が福岡を新たな移住地とすべく出港する。

政府も何も手を打てず、諸外国もこの状況を黙認し、福岡市民も自分たちが占領されてしまうことを受け入れる中、共同体に馴染めず重犯罪を繰り返して戸籍から抹消された特殊な嗜好と興味を少年たちのグループが遠征軍を倒すべく立ち上がる。

という感じである。

全編を通して、少年たちのグループ、北朝鮮の遠征部隊部隊、福岡市民、政府の人間、とあらゆる視点から緻密に欠かれた物語はむやみやたらとリアリティーがあったし、登場人物もエッジで手を切りそうなくらいにキャラが立っていて、なにしろ巻頭の人物紹介のページだけで数ページあるくらいだ。

細かいことからずっと先の見通しまですべて計算しながら着々と占領統治の既成事実を作ってゆく貧しい北朝鮮の軍隊に対して、武装した外国の軍隊による県の占拠と統治という想定外の事態になすすべも無く右往左往し、独りでに膨張するデマに踊らされてパニックになる先進国であるはずの日本の状況は、同じことが起これば現在でもこのとおりに展開しそうで怖い。

内田樹は誰も予想しないような未曾有の災害やトラブルに対しては共同体に属さない特異なセンサーや勘を持つ特殊な人たちに頼らざるを得ない。と言うような意味の事をよく言っていて、まさにそのような特殊なアウトサイダーによって日本と福岡は救われたわけであるけど、結局この物語の中ではこういった現実では殆ど期待できないことでもない限り、既存の政府や社会組織はこのような状態に何の対処どころか解決の道筋すら示せないのだと言うことにもなる。

この本はそういった政治的な小説としての読み方がされていることが多いけど、私はそれ以上に余り言及されないトリックスター的な役割を果たす少年たちの境遇にとても興味を持った。

彼らは、強力な毒をもつ両生類や節足動物を大量に飼育する少年、金属を研ぎ上げて作った殺傷用ブーメランを自在に扱う少年、対人用に特化した爆発物のスペシャリスト、破壊工作に使用する特殊高性能爆弾に並々ならぬ知識を持つ青年、建物や施設の配管や構造美を愛する少年、破壊と殺戮にしか生きる意義を見出せない青年、参加した中東のテロ組織と資金関係があり銃器を密輸入する銃器マニアの元銀行員、彼らに棲家を提供する詩人たちと、一点に特化した強烈な個性を持つ人間の集まりである。

彼らは子どもの頃から極度の自閉症や精神疾患と強烈なトラウマから世界との距離感をつかめないま、誰からも理解されずに育ち、家族、学校、施設とありとあらゆる共同体になじめず追い詰められ、結果として強盗や猟奇殺人や大量殺人を犯してしまい家族に戸籍を抹消された、住基IDを持たないような少年たちばかりである。

そんな彼らは一人で放浪するうちになににもとらわれない自称詩人のイシハラなる中年の元で生活を始め、イシハラを中心とする共同体に属しながら、やっと自分らしく自分の個性を保持したまま生きる事が出来るようになった。

日本政府、福岡、遠征軍で重用される日本人など大なり小なり日本の側に属する「正しい共同体」を構成する人間は自らの保身を最優先に遠征軍に媚を売り、また事なかれ主義で事を運ぼうとしている。

一方そんな「正しい共同体」から徹底的に拒否され否定され排除されてきたイシハラグループの少年たちは死を覚悟して遠征軍と戦うことを選び、結果としてあんなにも憎んでいた「正しい共同体」を救うことになる。

それは市民や共同体を救うとか征服者を倒すとか誰かの犠牲になるとかいった単純でチープなヒューマニズムではなく、もっと人間の奥底にある、支配されることを拒否し、自分よりも強大なものに屈せず牙を剥く純粋な闘争本能である。

そして今までずっと自分を守るために自らの殻に閉じこもり外の世界を否定してきた彼らは、生まれて初めて自らの意思で自らの行動に意義を与え自らの存在の意味と価値を世界の中に見出すわけである。

物語の最後に、今までずっと仲間からも「狂ってる」と言われ続けてちょっと浮いていた、「仲間と敵」ではなく「自分と敵」でしか世界を見れない、テロリズムと大量殺人と大量破壊にしか生きがいを見出せないカネシロと呼ばれる青年が、神懸り的な運で弾に当たらずに対人地雷で撃ち漏らした敵を殲滅した後に、仲間と遠征軍の死体が累々と積みあがる場所に佇んで、爆弾の起爆スイッチを握って仲間を逃がすためにこう言うシーンがある。

これは俺がずっと夢見てきた世界なんだ。

やっと見つけたんだ。

だから俺はここに残る。自分でここを始末する。

今まで彼の欲する世界と欲望はずっと共同体の目指す世界と真っ向から対立していたし、彼が美しいと感じる世界をを彼以外の全ての人間は醜いと感じ、彼を否定していた。

しかし、彼のこの瞬間だけは今までずっと頭の中で妄想するしかなかった世界が現実になり、しかもその彼が心からの望んだ世界が生まれて初めて仲間から肯定され彼らと世界を助けることになった瞬間なのだ。

このシーンの美しさはただ単純な破壊と殺戮の恍惚といったものに属するだけではない。

美とは聖と俗の狭間にあるものだとよく言う。同じように本来なら決して一致しないはずのカネシロが心から望んだ選択がカネシロ以外の人間に絶対的に受け入れられて一致した軌跡の瞬間であるからこそ美しいのだ。

この物語の中で北朝鮮での全ての人的才能は軍人であることの有用性でのみ測られていたけど、日本では殺傷用ブーメランから破壊工作からヤドクガエルの飼育までありとあらゆる方面にその際のを発揮することが出来ていた。

ありとあらゆる方向の価値と方向性の多様性の融合にこそ本当の豊かさとか美があるのかもしれない。

そして「正しい共同体」が異端者を排除せずにその共同体の中で存在し続けるのを認める事を、ヒューマニズムとか人権とかいった根拠ではなく、通常では対処できない事態への先行対策やバッファのひとつの可能性として、自らの存在の保障の1つとして有用性を認める。といった見方もまた美しいように思う。

  

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