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2008年12月2日

ルードルフ・オットー 『聖なるもの』

ルドルフ・オットーの『聖なるもの―神的なものの観念における非合理的なもの、および合理的なものとそれとの関係について』を読んだ。本当は読み終わって一ヶ月くらいたっているけど、中々に格のある本なので中々に適当なことを書けずに今に至っている。
で、いったん書き始めるとやたらと長くなってしまった…
著者であるルドルフ。オットー(1869年~1937年)はドイツプロテスタントの神学者で、大雑把に言うとニーチェとヴィトゲンシュタインの間の時代の人、もう少し詳しく言うとフッサールとかベルクソンと大体同年代の人でアインシュタインが特殊相対性理論を発表したくらいに壮年期を過ごした人ということになるようだ。
そしてこの本は第一次世界大戦のさなかに出版された。
一応神学者ではあるけど、プロテスタントと言うこともあってか、彼の論調からか、バリバリの神学ではなく、哲学や宗教哲学のジャンルに区分されるようである。
彼はカントとフリースの研究から、崇高で聖なるものとは、という問題意識を持つようになって宗教哲学の研究に移行したらしく、この本は正にそのテーマを、つまり、宗教はその根本的な要素として「聖なるもの」に対する「畏怖」、つまりは恐怖の入り混じったような憧れなどの非合理的な要素によって成り立っている。とするものである。


キリスト教の教義を前提として、それに則ったいわゆる神学の立場ではなく、哲学的な手法で宗教にアプローチしようとすると、この本のようなオットーの見方にたどり着くといわれるらしい。
宗教について学ぼうとするものにとって、彼の思想は基本的な概念を構成するものであり、この本は古典中の古典として基本的な文献であるという扱いを受けているらしい。
やたらと「らしい」を連発しているのは、それだけ重要そうな位置にある人物と著書なのに、この本を読み始める前までは全くノーマークどころか殆ど全く知らなかったからである。覚えている限り聞いたことすら無かったと思う。
私の浅学のゆえだろうけど、少なくとも私にとって今までは全くなマイナーな人物だったし、言及されるのも殆ど聴いたことが無かった。
例えば、有名どころのアウグスティヌスやらカントやらニーチェがどれだけ哲学史の中で意義を帯びているかと言うのは、勉強したり色々な本を読んだりなんやらで端々に名前が出てきたり聞いたりするうちに、なんとなく感覚的に捉えられるようになっているような気がするけど、このルドルフ・オットーという人と『聖なるもの』と言う本は殆ど予備知識がなかったので、宗教学に関する古典中の古典であるとか、哲学としての方向性で宗教を見るとオットーに行き着く、とか言われても、聞いただけではピンと来るものが無かった。
ということで、先に例を挙げた人たちのような、思想史だけでなく世界史の文脈でも名が出てくるような主流の位置にあるのではなく、どちらかと言うとその道ではパイオニアで有名やけど、一歩その道から外れるととたんにマイナーになるような人であろうと捉えている。
しかし、世間的にはどちらかと言うとマイナーやけど、その道ではその人なしではありえないくらいの多大な影響を与えた人というのはとても多いわけで、このルドルフ・オットーという人は、一般的な目から見ればそういった位置づけになるのだろう。
と言うことで、どちらかと言うとニッチな分野で、学術的な興味の文脈で語られることが多そうな人物と書物であるけど、私の場合はそういったことは関係なく、単純に一書物として、読み物の一つとしての興味の対象として読んだ。
そしてなぜか一般的な岩波文庫の山谷省吾訳ではなく、華園聰麿訳の創元社のハードカバーで読んだ。これが良かったのか悪かったのかわからんけど。
この本で彼は、先にも述べたように「聖なるもの」や「畏るべきもの」に対して抱く敬虔な気持ちだけでなく、恐怖を含んだような畏敬の念などをあわせた、道徳や習俗や認識とは全く別の、非合理的なものこそが宗教の根本的な部分を形作っており、それを彼は「ヌミノーゼ」という概念で呼んでいた。
この「ヌミノーゼ」なる感覚それ自体をとって宗教的な構成要素の一部であると主張すること自体は、確かに特筆するほどのことはないよう思う。
しかし、彼はそれは一要素であるだけにとどまらず、それが殆どすべての宗教的な動機であると言っているところに意義があるのだろう。
たとえばその「ヌミノーゼ」は「聖なるもの」に対する愛やとか憧れやとか帰依の感情ではなく、余りにも絶対的なものを目前にした時の絶望感ににも似た、自分の小ささと無力さに震えるような、殆ど理不尽に近いような畏れの感覚であるというように、我々が一般的に想像しがちな「神」や「聖なるもの」に対して抱くであろうと予想する「愛」のような感覚とはかなり異なっている。
そしてその「ヌミノーゼ」の感覚は正義が守られたり、道義的な行為を目にした時に感じるような、いわゆる正義感とか倫理観、または自然や宇宙などの法則の美しさを目にした時に感じる高揚感とはまったく異なっている、合理的な知を越えた感覚でしかないとも言っている。
つまり、単純に宗教的なものであるとか宗教的な感覚というのは、ただ人間をはるかに超えた絶対的な大きなものに畏れを抱きつつも激しく惹かれる、完全に非合理的な感覚であり、倫理であるとか正義であるとか、はたまた世界の成り立ちであるとか世界の意味だとかいった、ある種の論理や合理性や認識の入る余地のあるものとは全く別である。と主張していることになる。
この主張は、我々が宗教を捉える時にするいろいろな見方をかなり根本のところから揺さぶるものであろう。
たとえば、宗教をモラリティーや何らかの規律の根拠として見る見方、世界解釈や世界の意味を与えるものとしての捉え方などは、宗教の根本の所とは関係ないということになるし、彼はその「ヌミノーゼ」なものは個人に帰する非言語的な感覚でしか言い得ないと言っている。
このあたりの部分は私にとって結構大きな驚きだった。
こういった「ヌミノーゼ」の感覚を取って「宗教的」であるとするならば、例えば「キリスト教的」でもなく「仏教的」でもない状態で十分「宗教的」でありえることも可能になる。
キリスト教にしろ、仏教にしろ、何かしらの対象、つまりはキリストであったり阿弥陀仏であったりに対する帰依の感覚をもって「キリスト教」であったり「仏教」と呼ぶのやろうけど、そういった具体的な帰依の対象のない私も「ヌミノーゼ」の感覚がとても痛いほどわかるし、そういった「ヌミノーゼ」な対象を何かしらの基準のように考えているという意味では「宗教的」であると言えるかもしれない。
例えば、「海に潜って魚を突く」というのは私にとって激しく「ヌミノーゼ」な行為なのだ。
限りなく死に近づきながら、純粋な殺意の塊となって、冷静に狙った獲物を殺す。というのは恐らくどんな宗教的なモラリティーから見ても道徳的な行為とは言い難いだろう。
しかしそれは激しく「ヌミノーゼ」で激しく「被造物感」を感じるという意味では「宗教的」な行為であると言える。
モラルに従う従わないを度外視した先にある、圧倒的な無力感と絶対感と一体感と拒絶感の入り混じったような、余りにも非合理的な「ヌミノーゼ」の感覚なんか誰しもが持っているのじゃないだろうか。
道徳的なところを踏み越えた先にこそ「ヌミノーゼという意味で宗教的」なものがある。などと言うつもりはないけど、「ヌミノーゼという意味で宗教的」であることは、必ずしも「キリスト教的」でもなく「仏教的」でもなくその他あらゆる既成宗教的でないこともありえると言うのは、ある種の人にとってとても救いになるのじゃないだろうか。
一般的な手法でもって「神」や「聖なるもの」について考えたり語ろうとするとどうしてもそれ自体を対象にしがちやけど、彼はそういった神や神的なものについて「神」や「聖なるもの」そのものを直接的に思考の対象として考えるのではなく、それと対峙した人間はどのような感覚を呼び起こされるのかと言う切り口で考える方法論を展開していた。
つまり、「聖なるもの」のひとつ下の次元で現象する「ヌミノーゼ」の更に一つ下の次元に現れる影としての我々の感情を語ることによって、「聖なるもの」についてではなく「ヌミノーゼ」について語ろうとするのである。
それはひとつ以上の上の次元のものを、それが見せる影によって語る数学的な手法に似ていた。言葉で語ることのできる次元を越えているような非言語的な領域を言語で語ろうとするには、やっぱり非言語的なものの見せる影について語るしかないのだろう。
そして、これが非言語的な概念である以上、理解できない人にはいくら言っても理解してもらえないし、理解する人は言わなくても理解ているであろうから、理解しているものとして話を進めると言うようなことを書いていてちょっと驚いた。
そういった何かしらの非合理的な経験や理解を相手が理解していると前提した上で論理を展開するのは、まさに、二乗してマイナスになる数である虚数が存在すると仮定してグラフを複素数に拡張するのと同じではないか。
理解できる論理でのみ表現されるものではなく、理解出来ないながらも直感できるもの、理解できないながらもそうでなければならないものが存在するものとして、考えることが出来る事こそ真に知的な行為なのやなぁとなんとなく思った。
そしてやっぱり宗教とは、そういった数次元上での現象であると言う意味で、知的な追求の限界を超えた先にあるものやねんなという思いを新たにした。
全体的な本の構成に対する感想を述べると、前半はそういった「ヌミノーゼ」が如何に宗教を構成する要素として唯一無二で、如何に重要なものであるかと言う部分が語られており、聴いたことのないような言葉や概念がボンボン飛び出して来て、読んでいてとてもスリリングで面白かった。
しかし、いかに宗教にとって「ヌミノーゼが」重要であるかを論じ終わった後の中盤から後半になると、今度は如何にキリスト教はヌミノーゼで優れているかというところに論点が移っていささか退屈であった。恐らくこの部分が、神学者である彼が最も言いたかった部分なのかもしれないけど。
それでも、宗教改革を行ったマルティン・ルターが如何に神を畏れ、如何にびくびくしながら生きていたのかと言うところが彼の「信仰義認」と「ヌミノーゼ」が関連付けられて述べられたところはとても面白かった。

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