映画:パゾリーニ 「王女メディア」 / 濃いだけのマリア・カラス / ラブユー貧乏臭さ
先日はじめてみたパゾリーニの映画がかの有名な「ソドムの市」だったのだが、なんかおっさんが一方的にやりたい放題してる割には、エロ話を披露するおばちゃんが一番楽しそうやったなぁ。というよくわからん感想を持ったのだが、絶対この映画ってこの監督の映画の中では特殊な位置にある奴やから、もう少し普通のも観た方がええんじゃないか?ということで同監督の「王女メディア」 (1970/伊)を借りてきた。
『王女メディア』といえばエウリピデスが作った古代ギリシアの悲劇やけど、この映画の大まかなストーリーもそれに則っている。もちろん台詞とかはぜんぜん違うので、大まかな筋に沿ってパゾリーニが作り変えたってことになるのやけど。
で、この映画の一番のウリは、マリア・カラスが主役の王女メディアを演じていることで、その次のウリはなんかとんでもない辺境の地でロケをした。ということであるらしい。
当時のカラスはオペラ会を追放され、追いかけた男にも愛想をつかされて失意の底にあったということらしい。ってこれは「王女メディア」そのままやね。その自分の状況を演技にぶつけてかどうかは知らんけど、メディアを演じるカラスは中々に鬼気迫るものがあった。
しかし、マリア・カラスって言えば伝説的なソプラノやのに、この映画ではそんなオーラはまったく無く、なんか濃い人やなぁという印象でしかなかった。
さらに、伝説の英雄であるはずのイアソンがやたらと小者臭漂うあんちゃんで妙に貧乏臭かったし、メディアが王女として収めていたコルキスも王国というよりは未開の部族って感じでちょっと貧乏臭かった。
辺境でロケしたっていうことやけど、これは世界の終わりという意味での辺境ではなく、悪い意味でのイナカという風にしか見えない。
パゾリーニって言えばイタリア映画の巨匠で難解ってされているけど、単に人間が生来持つ貧乏臭さを通して人間を見せているだけのような気もする。
そういえば、「ソドムの市」でのおっさんたちの所業は貧乏臭さの極みではないだろうか?
まさか大金かけて映画作って、「テーマは貧乏臭さです!」ってことは無いと思うもんなぁ。普通は。
そういうわけで、これから私はパゾリーニって言えば「貧乏臭ささ」って思うことにする。