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2009年3月8日

フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 / SF教養小説

SF読み幼年期と言うことで、次はフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んだ。
この本は以前に観たカルト的人気を誇る映画「ブレードランナー」の原作であるけど、大まかなストーリーと設定だけが同じで内容は全く別物であった。
人間たちの火星移住がほぼ完了した世界大戦後、荒廃しきった地球では生きた本物の動物を飼うことがステータスとなっていた。
機械の「電気羊」を飼いながらも、生き物を買って飼育するのに憧れる主人公は、高価な動物を購入するための資金を稼ぐために、奴隷として働いていた火星から逃げ込んできた人間のアンドロイドを処理する仕事を請け負う。
「ブレードランナー」の街のような未来像がディストピアという言葉で表現されることが多いけど、この小説の中の街は「ブレードランナー」のようなゴミゴミしながらも活気にあふれるような世界では全く無い、
無機物のゴミにまみれた殆ど人のいない、何もかもが死に絶えたような無機的な荒野のような世界で物語は進んでゆく。


虫であれ蜘蛛であれ生きている本当の生物であれば法によって厳重にその命を守られる社会の中で、人間と同じ見た目の同じ感情を持つ(ように見える)アンドロイドは何の躊躇も無く破棄されるわけで、アンドロイドの命よりも蜘蛛の命の方が比べようの無いくらいの重い世界を描くことで、そのあたりの人間とか命とかいった問題があぶりだされてくる。
アンドロイドと人間の区別をつけることが殆ど不可能であるにもかかわらず、その二つの間の存在価値は全く違うわけであり、そのテーマは結局、人間をアンドロイドだと思ったり、アンドロイドを人間だと思ったり、その違いが全く分らなくなって自分自身をすらアンドロイドではないかと一瞬疑ってしまう主人公を悩ますことになるテーマともなってくる。
更にはアンドロイドであることが判明した人物の方が自分にとって意味のある人物であることが多くなってくるに及び、彼は根本的な価値転換を迫られるのである。
こういったテーマはどちらかと言うと純文学的なテーマであるけど、SFという土壌で特殊な設定であるからこそただの思考実験で終わらずに生きてくるように思う。
歩く生きた蜘蛛を見つけてすごい感動を抱く男がいたり、主人公が自分の足元を生きたトカゲや虫が駆け抜けてゆくのを発見するといった幸せを一生のうちに一度でも体験できるのだろうかと夢見たりするシーンを美しく思った。
特徴的なタイトルのこの本はパロディ的なタイトルが量産されるほどに有名であるけど、SFとしてではなく純文学としても読めるなぁと思った。
アンドロイドを狩る賞金稼ぎの物語といかにもSF風な設定にもかかわらず、彼の精神的な成長と価値転換と世界との和解を描く純文学的な教養小説でもあった。乱暴に言ってしまうと構造としては夏目漱石の『三四郎』と同じである。
ほんまに純文学とかSFとかの垣根ってのは、SFと純文学の両方の読者の立場からすれば邪魔になることが多いなぁと思った。

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