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2010年9月22日

脊髄反射ギャグと下ネタとバタイユと消費とこのブログを書くことと

先日古い友人と海釣りに行った事を書いたが、その海に向かう道中の車の中、妙なテンションでどうでもいいことをうだうだ話していた。
運転しながらおはぎを食べたりお茶を飲んだりしながら話していたのだが、よく考えれば殆ど二十年くらい全くといって良いほど、二人とも言ってる事が変わっていない。
二十年も同じような事ばかり言っていれば名人芸的様式美が生まれても良いはずだがそんな気配も全く無い。
道中の看板や店の屋号を読んで、それをもじった上での下ネタや脊髄反射ギャグに様式が生まれよう筈もないし、そこに美の存在する余地なんか何処にも無い。
それらはただその場で消費されてゆく下ネタや脊髄反射ギャグに過ぎないのだ。
何かを行うにせよ生み出すにせよ、ただ消費したりされるものであるよりは、何かしらの普遍性を持って後に残りうる物や事であることの方が良い。という考え方に疑いを抱く人は余りいないだろう。
しかし、消費行動が本来的に楽しいものであることであることを我々は経験的に知っている。


そして、「消費」に価値を与えたバタイユという人間がいた。
バタイユ?ジョルジュ・バタイユ?奴のどこが思想家なのかさっぱり分からん?やつの言う事に思想があるとは思えん。ただのエロ小説家とちゃうん?という意見はある意味で正しい。
「消尽」という概念に肯定的な意味を与えた時の彼の説得力はエロ小説家だからこそ到達できたレベルだと私は思う。
言うまでもなく本来のエロは動物的生物的には子孫を残すという「生産性」に関わるものである。
しかしながら彼はそのエロの消費をいわば自身の消尽としてタナトスと存在論に引き付けて消尽そのものに価値を与え、そこに人間の真髄を見たのである。
そして、私のこのブログも四年以上書いている。
四年書いて何がかが生まれただろうか?何かが変わっただろうか?
一時期このことについて考えてしまいブログを止めようと思ったことがあった。
四年も変わらず同じような事ばかり書いているこのブログの内容は、オヤジギャグで下ネタで脊髄反射ギャグとなんの変わりも無い、良くてただ消費されるだけの程度の物であるだろうことは良く分る。
しかしそれは消費する者にとって消費されるから価値があるのである。
何かを生み出すためではなく、消費するために書き続けるのである。
何の変哲も無い毎日に起こった事や感じた事や考えた事をいかに面白可笑しく語れるネタにするか、つまりは何の変哲も無い毎日をいかに消費するか。更に突っ込んで言えば、意義も価値も目的も無く消費されてゆくだけの人生と自分の存在をいかに肯定するの試みでもあるのだ。
ということで、エロを正当化するにはバタイユを引き合いに出すのが一番!って話でした。

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