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2011年6月1日

宮台真司『終わりなき日常を生きろ』/終わりなき非日常を生きる世界で/超人としょこたん

宮台真司の『終わりなき日常を生きろ 』を読んだ。
この東日本大震災で「終わりなき日常」が根本から覆されたと言わざるを得ない、むしろ「終わりなき非日常」が始まったともいえる今、なぜかこの本が読みたくなったのだ。
この本はサブタイトルに「オウム完全克服マニュアル」とあるように、まだオウムが一番の社会不安と一番の話題であった時代、今から十五年ほど前の1995年に出版された本である。
「朝まで生テレビ」で「ブルセラ社会学者」として一躍有名になった当時の彼は、気鋭の社会学者として売り出す一環として、結構慌ててこの本を出版したらしい。
あまり推敲や編集に手をかけていない割りに、宮台真司といえば『終わりなき日常を生きろ』と言えるほど、この本は彼の一番の主著といえるだろう。
阪神大震災、地下鉄サリン事件と日本の日常と安全保障を根本から揺さぶった二つの出来事が起こってしまった後でも、それらの事件の前と同じように生ぬるく続く日常はまったく変わらなかった。
世界はそんな「終わりなき日常」が死ぬまで延々と続く地獄であるという世界観を前提にしたうえで、
「素晴らしい未来」などというものが幻想でしかないことの確信を抱きながら、「いきがい」や「生きる意味」を持たずにただ日々を生きることに耐えられず、「救い」と「意味」を求めてオウムのようなカルトに吸収された層とはまったく対照的に、
意味も救いも将来も望まず、従来のモラルも踏み越えて、ただ友人たちとコミュニケーションしながら、「ゆるく」日常を面白おかしく生きて行く、当時の高校生あたりの若い世代の、いわゆる「コギャル」などと呼ばれた層を、そんな「当時の現代」に最も上手くポジティブに適応した形だとして、彼女たちのように「終わりなき日常を生き抜く」技術なり方法がこれからの現代に必須になる。
というところがこの本の骨子であろうか。


1991年に中島梓が『コミュニケーション不全症候群』で「オタク」を現代に対する適応の一形態であるとしたが、その「オタク」と対極をなす層である「ギャル」も同じ現代に対する適用の一形態であるとされている。
しかし、価値と目標を失った世界でのそれらの再発見としての「オタク」や、失われた世界と自分の意味の再定義でもあった「カルト」の層と、世界を否定せず肯定せずただあるがままの世界に適応している「ギャル」層は根本的に違う。
宗教的な価値と意味の崩壊によって現代が意味と価値をなくした世界に変貌し、その世界を生き抜くために人は「超人」に進化する必要があるとニーチェは言った。
彼が言うには、その超人とは「重力の魔」を笑い殺して軽やかにあり、運命を愛し、ルサンチマンも否定も持たずに世界で遊戯し続ける存在である。ということだが、阪神大震災と地下鉄サリン直後の当時の「終わりなき日常」の世界を否定も肯定もせずに絶妙のバランス感覚で軽やかに楽しく遊戯して生き抜くギャルたちは、世界を生き抜くためにオタク層に入ってた人種や、意味を見つけるためにカルトに入った人達からすれば「超人」であるとしか見えなかっただろう。
そして、それから20年経過した今の2011年に現代を見回してみれば、当時は対極のものであった「オタク」と「ギャル」のハイブリッドも生まれつつあるように見える。
たとえば私の敬愛する「しょこたん」などはそのオリジナルであり、現在もその一番先頭を貪欲に走り続けている存在であろう。
彼女のブログを読んでいる人なら、彼女の言葉に彼女がただのオタクともギャルとも一般人とも違う深い真理に到達している証拠を見つけることが出来るだろう。
ニーチェの言う超人が、過去と未来を繋ぐ一瞬でしかなかった現在を、過去と未来を肯定的に意識的にぶつけ合う場として作り変えたように、オタクがギャルに、或いはギャルがオタクに追いつくのではなくオタクとギャルが真正面でぶつかり合う場で超人が生まれるのだ。
ツァラトストラが超人の先駆けであったように、しょこたんは新たな人間の先駆けとしてオタクとギャルのぶつかり合う場となったのだ。
そして、その「しょこたん」以降、今までアンダーグラウンドで閉鎖的だったオタク的だったりギャル的だったりする価値や文化体系は「終わりなき日常」を生き抜く価値として広く門戸を広げた形で一般化したように思う。
「終わりなき日常」を苦しいながらもただ「生き抜く」だけなら、現代はこの本が書かれた当時よりもかなり容易になったといえるだろうし、ある意味で現代は「終わりなき日常」を生き抜く知恵の一つは確立された時代であると言っても良いと思う。
私の子供のころ、ステレオタイプ的な21世紀のイメージといえば、人が移動するための透明なパイプが町中を巡って建物をつなぎ、その上空を車が飛びまわっている様な、鉄腕アトム的世界観の発展型であるような、科学万能的未来であったように思う。
そして一方で、20世紀の終わりは、いわゆる世紀末的といわれるような、ハルマゲドンや核戦争といった破壊的なカタストロフによる世界の終わりがもしかしたら来るかもしれないと思われていた、
しかし、冷戦も、阪神淡路の震災も、思いがけなく身近に潜む脅威であったカルト集団も、世界を終わらせるほどの力は無く、後に残ったのは「終わりなき日常」であった。
そしていざ21世紀が訪れても世界はまったく変わらなかった。
20世紀終わりの「終わりなき日常」は21世紀になっても変わらなかった。
ただ、それにユートピアに見える全体主義的な格差社会であるような、いわゆる「ディストピア」の要素が加味されただけであった。
そして、現代、2011年3月11日以降、その「終わりなき日常+ディストピア」の世界も根本から揺らいだ。
震災と原発事故により「終わりなき日常」は非日常に埋め尽くされ、21世紀的な科学万能の世界観も否定され、殆ど「世紀末的」な予感と雰囲気が日本を包んでしまったように思う。
思えば、その「終わりなき日常」に包まれた世界はどれだけ平和な世界であったことか。
当時、世界の否定的な解釈であり、地獄の一形態として捉えられていた「終わりなき日常世界」は今となって思えば、もう一度取り戻したいとすら思える、とても幸せで平和な状態だったのだ。
今この本を読めばその「終わりなき日常」がまったく地獄に思えずむしろユートピアに見えるというギャップが可笑しい。
そして、震災から三ヶ月ほどたった今、当初の非日常的な雰囲気と予感は鳴りを潜め、今となっては幸せな世界である「終わりなき日常世界」は再びまた日本を覆いつつあるように思う。
しかし原発事故の当初に最も悲観的に事故の状況を分析して予測していた、ネット上で「危険厨」と呼ばれていたような人達の見方と現実がほぼ同じ事態になっていたことが分かってきて、今まで非日常でしかなかった破壊的で世紀末的な状態が現実のものとなっている。
今まで一般的だった「メルトダウン」という単語を飛び越えて「メルトスルー」なる新たな単語を現実で起こっている事として知り、次は「メルティラブ」か?などと騒がれるなか、毎日毎日今まで非現実でしか無かった事実が現実となるに及んで、「終わりなき非日常世界」はどんどん加速しているように見える。
そんな「終わりなき非日常」がどんどん加速しているのに、事故当初に比べて殆ど話題になってないのは、「終わりなき日常」がどれだけ心地よく魅力的に恒常性とか侵食性を人に対して発揮するのかがよく分かるように思う。
今のように「終わりなき日常」が「終わりなき非日常」を取り込む形ではなく、現在を未来と過去との肯定的なぶつかりの場であるとした超人のように、オタクとギャルがぶつかってしょこたんが生まれたように、この東日本大震災を「終わりなき日常」とそれ以降「終わりなき非日常」を激しくぶつけ合う場として、そこから新しい世界を肯定する何かが生まれれば良いなぁと、
当初は世界が地獄であることを示す一つのモデルであり、ネガティブな世界解釈の一つであった「終わりなき日常世界」が今から見れば微笑を禁じえないような平和な世界としか見えないように、この東日本大震災以降の「終わりなき非日常」の世界も未来から見れば微笑を禁じ得ない世界になっていれば良いなと思うのであった。
そして「終わりなき日常」を生きる知恵は、きっと「終わりなき非日常」を生きるのにもきっと役立つに違いないとも思うのであった。

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Comment & Trackback

しょこたんが主題歌を唄ってる「天元突破グレンラガン」と今回のエントリの内容がダブりますなぁ…
たぶん太陽嵐一発で世界は今以上の危機に瀕することになるので、僕はもういつ死んでもおかしくないと言う覚悟で生きています。
長いアニメですが、時間を持てあましてるようならグレンラガンどうぞ。

長いのにお読みいただいて多謝であります。
太陽嵐と来ましたか。確かに電子機器に依存しまくってるわれわれにはおっそろしい脅威ですな。
その中で死なずにすむのは、南の島のフローネ状態でも北斗の拳状態でも生き残るタフさが要求されそうですな。
いずれにせよ。何時死んでもい覚悟ができるのはすばらしいです。
「グレンラガン」観てみます。

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