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2012年12月6日

『魂にふれる―大震災と、生きている死者』若松英輔

ひとつ前のブログに感想を書いた『津波からの生還 東日本大震災・石巻地方100人の証言』は図書館の新着図書の棚で見つけて興味を持って直ぐに読んだわけではなく、しばらくしてからちゃんとした書架に配架されてされてから読んだのが、タイトルがうろ覚えで探すのに結構苦労した。

それらしい「震災 生」とか「津波 助かった」などといったうろおぼえキーワード検索で探していたのだが、その途中で見つけて読もうと思ったのが、この若松英輔『魂にふれる―大震災と、生きている死者』である。

この本の目次を見て、私の敬愛する神谷美恵子について言及してあり読もうと決めたのだ。

この本を一言で言ってしまえば、池田晶子、鈴木大拙、西田幾多郎、田辺元、柳田国男、小林秀雄、神谷美恵子などの著者が好きな思想家や哲学者の言葉を彼ら自身の個人的な体験と結びついたものとして検討し、若松氏の経験と確信と信念を元に「死者論」として再構築する試み。という事になるだろうと思う。

その「死者論」の骨子は死者は目に見えなくなっただけで依然存在し、死者自身も生長を続けながら生者である我々と共にありながら様々なやり方で働きかけている。

植物であれ、文学、哲学、科学を通じであれ、人間がなし得るのは、創造ではなく発見ではないだろうか。さらにいえば、人間に委託されているのは、いつも何かを見出し、想い出すことではないだろうか。言葉においても、誰が発したかは、第一義の問題ではない。

と著者が言うように、文中に出てくる哲学者や思想家はそういった死者と対話し死者に使われることで何かしらを語り、何かしらを創造するのではなく再発見している。と。

死者は菩薩道とか菩薩行的に自分のいる世界から生者を助けるし、生者は死者に助けられつつ死者を通して神の世界だとかイデア界だとかに通じ真理を再発見するのダァーーッ!ってな具合だろうか。

と、こう書いてしまうと少し神秘主義的トンデモ系のように聞こえる。しかし著者自身もそのことをわかった上で、震災後に生き残った人や未来について語る言葉は多くても、死者について語る言葉が殆ど無い。ということで雑誌に掲載された複数の連載をまとめて一つの「死者論」として世に放った。

氏は「死」は語りえないものや語る必要の無いものとして、それよりも「死者」こそ考えて語られる必要があると言っている。

それは彼自身の妻を失った「経験」と、氏の敬愛する哲学者達がそうであると思ったように、死者は無になったわけでなく自分と共にあり連なっているという「経験」に端を発しているという。

たしかに「死」をただ無になるだけの事だと捉えるのと、死ぬのではなく「死者」となりまた違う形で生者とかかわり続けると捉えるのとでは、「死」に対する捉え方も全く変わるだろう。

この本の読む直ぐ前にジャンケレヴィッチの『死』をその分厚さにビビッて読むのを諦めた私が言うのもなんだがww確かに「死」をそのままで考えようとすると余りにもとらえどころが無さ過ぎるような気がするけど、自分についても他人についても「死」ではなく「死者」になった状況を考えるとなるほど考える対象となりえるように思えるし、何よりもこの捉え方は生者にとって死者にとっても、自分が死者になったり愛する人が死者になることを具体的に考えれば、とても救いがあるように思う。

考えてみれば、私は、過去にとっくに死んでしまっている色々な人々に助けられて教えられて生き残り日々学んでいる。とも言えるだろう。

私自身が直接知っている人であったり、遺伝学的に血の繋がってる存在だけではなく、私が勝手に師と仰ぎ敬愛している偉大な音楽家や画家、小説家や思想家や哲学者や宗教者達まで、死者として私の傍らにあるように感じられるような気がする。

哲学を読む、そのこと自体が経験にならなくてはならない、と田辺は考えた

と著者が述べているように、この本を読んだことは私にとっても一つの経験だった。

昔から哲学だの思想だのといった本に救いとか真理とかそういったものを求めて必死で読んでいたけど、ここ最近そんなものはそんな系統の本は殆ど読むに値せんとずっと思っていた。

しかしながらこの本を読んで哲学とか思想はやっぱりとても意義があって救いとか真理を求める道の一つだと再認識するようになった。

結局、「死」が今まで生きていた人間が機能停止して崩壊し結局ただゼロになってしまうことだと捉える見方を前提とすれば、どうしてもあらゆることは物資質主義と虚無主義とニヒリズムの行き止まりに行き着いてしまうのかもしれない。

例えば、この本のように死者は見えないけど傍らにあって自分を助けてくれている。と確信するような、非合理で論理の彼方にある自らの体験に基づく確信が自分自身の絶対的な支点だと、こっそりひっそり自身の中に位置づけることは、自らの知性に限界があることを自身の知性の根拠の一つとすると言う意味で、逆にとても高度な知性の働きなのかもしれないですな。うむーなんかややこしい言い回しやー

語り得ぬものを、語り得ぬとわかりながらも、それでも語らずにはいられずに語ろうとする試みそのものに意義があるし、またそれを聴くものは言葉では語り得ぬ向こう側にあるモノに体験として連なる。そんなところに哲学の意義があるのかもしれない。

うん、でもこれは哲学に限らず宗教だろうが科学だろうが、音楽だろうが絵画だろうが文学だろうが凡そ真剣に為される殆どの事がそうですな。

一つ前のエントリーで震災で生き残った人について書いた本『津波からの生還 東日本大震災・石巻地方100人の証言』の感想を書き、今回は震災に触発されて書かれた「死者」についての本の感想を書いた。そして次は震災での「遺体」そのものを取り巻く人々について書いてある本『遺体―震災、津波の果てに』の感想を書こうと思う。

この三つの本の感想を書く事を通じて、私なりの考えとか信念とかが再認識できると良なとも思うし、そしてそんな私の中にある何かしらが、こっそりひっそりでもコレを読んでくれている人に伝われば良いなと思う。

 

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