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2006年12月10日

J・M・クッツェー 『恥辱』

私にとって二冊目となるJ・M・クッツェー『恥辱』を読了。
1999年に発表された本作は同年度のブッカー賞受賞作となった。
内容は一言で言うと南アフリカを舞台にした一人の男の転落物語である。
52才の大学教授がセクハラで大学を追われ、娘が営む農園に身を寄せて暮らし始めたものの、穏やかな暮らしに慣れ始めた頃に突然事件が起こる。
と筋だけ読むとチープすぎる内容やけど、チープすぎると言う事は逆に言えばどこにでもある話だと言う事でもある。
若く美しい女性だけが価値を持つとする若くない男の醜さであるとか、どう転んでも滑稽でしかありえない性欲のあり方であるとか、自らの欲求と衝動を憎むしかない惨めさであるとか、そういったわかり易くありきたりなテーマだけをこの本が語っているのではない。
そのどこにでもありそうな話は、ただの悔恨の物語でも贖罪の物語でもなく、男は反省の色も無くただ諦念の中で暮らしてゆく物語として進む。
そしてその物語の着地地点がなんともたまらんのである。


読み始めた頃はストーカーじみた勘違いセクハラ男の主人公に対して「うぁ~」としか思わないやろうけど、物語を読み進むにつれその娘のおおよそ理解できない考え方や選択肢を見るにつけ、主人公の方がまともで娘が間違っているように見えるて来るのは不思議な感じがする。
その男を狂わせたのは、結局充足して解消される事の無かった性欲やと簡単に言い切ってしまってもいい程度の理解のしやすさにも関わらず、その娘の理解できない考え方と行動を目にした時に感じる感覚は、我々の住む近代化やら西欧化(っぽく)された世界から南アフリカ世界の論理であり考え方であり行動を見た場合の、おおよそ理解できない違和感であろう。
南アフリカという場所を舞台にしているこの物語でお互い理解し得ない世界と言うのは当然白人世界と黒人世界と言う事になるやろうけど、前に読んだ『マイケル・K』同様に既存の世界を拒否し、既存の世界から拒否されればどうなるかと言う事も、J・M・クッツェーの書こうとするテーマの一つであるように思う。
主人公は西欧的な社会から爪弾きにされ、その娘は望んでその社会を拒否した。
娘は拒否して落ち着いた先の社会の異常に見える論理を受け入れるものの、主人公の男はどうしても受け入れられない。
物語の最期で、引き取り手の無い子犬が懐き切った主人公の男に抱かれて命を終える事になる様が暗示されているけど、この子犬の運命がどこの世界にも受け入れられない存在の象徴であるとクッツェーが言いたがっているような気がしてしょうがなかった。

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