プレデターランド

人間の中にある色んな感性と欲求と傾向やらが単一の要素として構成され、その人によっての単一の要素のあり方が人間の多様性の可能性だとするなら、同じ刺激に対して同じ反応が求められる世界や状況は多様性の放棄と個性の単一化が望まれる場でもある。
しかしながら、そういった感性や欲求や傾向が単一のものとして人にあるのではなく、全ての要素が混ざり合っている割合のあり方を多様性とするのなら、同じ刺激に対して殆ど全ての人間が同じ反応をするのは多様性の放棄ではありえないし、同じ反応を求める世界や状況と言うのは特定の部位を刺激する世界や状況と言う事になる。
つまりは、人間の多様性は特定の刺激に対する反応の有り無しではなく、反応の大小として観測されるわけである。
特定の有機化合物が特定の物質の存在を触媒として急激な反応を起こすように、特定の部位だけがひたすら刺激される世界もあるわけで、世の中色々、仕事も色々にも拘らず、人間なんか大して変わらんなぁと、初めて行ったUSJで思った。
例えば私が「エイリアン VS プレデター」のアトラクションが無いではないかと憤慨し、「プレデター VS E.T」のアトラクションを作ればUSJは黒字経営に転じられるに違いなく、USJを「プレデターランド」に作り変えればその他の世界のテーマパークやネズミの国は再起不能な経済的大ダメージをこうむる事になるに違いない。
と確信する事は、特定の欲求と傾向と感性の有無ではなく、それらの割合の大小として現象したわけであり、なんら土偶の変態性の増加と通常性が減じる話ではないのである。

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