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2007年6月24日

ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ―バタイユ作品集』

ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ―バタイユ作品集』を読んだ。
バタイユと言えば一応思想家ということになっているわけやけど、実際に話題に登る場合はネタ的にエロい部分で言及される事が多くって、実際彼がどういう思想を持っているのかというのは良く知らなかったわけである。
大抵エロティシズムを全面に出して小難しい事を言う奴は「ただ、お前がやりたいだけやろう」とか「お前がやりたい事を正当化したいだけやん」とか「何にも考えてないのを感覚の重視と取り違えてるだけやん」って微笑を禁じえないのであるが、さすがにバタイユはそういった御人と一味も二味も違った。確かに思想家と呼ばれる貫禄ときらめきが重量感を持って迫ってきた。


で、代表作である(と俺が思っていた)『マダム・エドワルダ』が入ったのを探して、この「角川文庫クラシックス」を読んだわけやけど、この本の構成は中々見事であるように思う。
前半三つは『マダム・エドワルダ』『死者』『眼球譚』と文学者としてのバタイユが現れている「小説」であり、最後二つは「エロティシズムに関する逆説」という文章と「エロティシズムと死の魅惑」てな講演&討論会の記録で直接的にエロティシズムを軸とした思想が語られている。
最初三つの小説だけでは「この変態!このエロ小説家!」で終わる事も簡単やけど、最後の二つの論文と講演記録を読むと、それ自体が前三つの小説の解説のように機能して、彼の思想である「消尽としてのエロティシズムと死」「最大の逆説、最大の理不尽としての人間存在」が上手く説明されていたように思う。
最初の三つの小説だけでは「エロ小説フラグ」が立って終りという可能性がかなり大きくなるし、最後の二つの論文と講演記録では「はいはい、何言うてんねん意味わからんし…」で終わってしまう事になるだろう。
そう言う意味でこの「角川文庫クラシックス」は中々うまい事作ってあるなぁ…と感心したし、私のように初めてバタイユに触れる人にも良いのではないだろうか。
彼自身の処女作である『眼球譚』はなかなか牧歌的で楽しそうにエロを満喫する球体フェチの少年少女の物語で、楽しそうな割に死とか狂気も満載となかなか笑ける話であった。「皮膚の上を眼玉で撫でまわすのは確かにまたとなく心地よいものだ。」という所が一番笑えた。ぼやっとしてるともう何が一般化されるかわかったもんじゃない世界と言うのは中々に知的にスリリングである。
物語の最後にキリスト教的な神秘と神聖への徹底的な侮辱と冒涜を行ってそれを官能の道具にするわけやけど「神は死んだ」で亡霊と化したキリスト教的価値を踏み台にしたエロティシズムと死を軸にした理不尽で逆接的な、全てを消尽する新たな人間存在の像を描いて見せたような気がしないわけでも無い。
『マダム・エドワルダ』はそんなバタイユ的なエロティシズムの権化たる「超人」でもあるわけやけど、バタイユ自身の言葉の、彼女を神だと言うのは皮肉でも無いかわりに、彼女のような人間を神と呼ぶのは正気の沙汰ではないという、逆説なり理不尽が見事に表されている。
そして『死者』では人間に対する究極の消尽である「死」をエロティシズムの至高の到達点でありかつ、それが発動するトリガーとして描く事で、天国や地獄や煉獄が消失した「神は死んだ」世界で、新たな意味を「死」に付与する可能性が予感されているような気がした。そしてエロティシズムが快楽の到達点ではなく絶望の到達点でもありうる事が上手く描かれていた。
エロティシズムに満ち溢れていても耽美ではない。
そのあたりがジョルジュ・バタイユの真髄ではなかろうか?

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004.『眼球譚』 ジョルジュ・バタイユ

 ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』を読む。 読む前にネットでバタイユについて調べ

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